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基本 (11/19)

誰かが開いたものなら、それは閉じることも可能である。

仏教は南無阿弥陀仏の伝統のなかに仏教という名を得た。お釈迦さまがどこぞの玄関の戸を開けるように仏教を開いたのでない。これは譬えのようでたとえでない。


手指の爪の先にも、計り知れない名もない生活者たちの痕跡がある。

歴史書にあるのは、文字にすることによってできた歴史あり、実際でない。我々は実際の歴史を書物では知り得ない。その我々が、書物で知り得ない歴史を今我が身としていただいている。


我々は手製の鏡の中にある虚像を我がものにしている。

我が身は単に我が身でないのであって、いのちの具体である。いのちとは如来の願心である。如来の願いが、今は、この我が身となっていてくださる。実には我が身はなく、如来のおはたらきがある。


無生の生であり、生は衆生の迷妄の器としてある。

分別の知恵で自と他を分かち、自については我と我がものに執し、他については愛と憎を熾す。迷妄のままに構築された世界のすべてが苦であるのは無智であることに因る。


往相と還相、相は二つながら体は一つの南無阿弥陀仏である。

すくわれたいと思い立つこころの起こる時、即ち、すくわずにはおかないという如来の南無阿弥陀仏がある。すくわれたいと思い立つ心も如来の回向である。すくわずにはおかないという如来の南無阿弥陀仏があるところに、必ずすくわれるべき衆生がいる。


この我が身は、それの虚像を見ている現生にしか往生の道がない。

一念は帰命である。裸で産声をあげたその一声は、生命の発する生きるのだという声であった。生きるのだということは、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏なされた円満の徳号に値遇い、往生を遂げることに他ならない。