表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

ふわふわ (11/18)

地に足のついた、という言い方がある。

時代の空気がふわふわとしていて、その中で自分の足が地についていないと感じると、どうするかといえば、地と足の間に足継ぎを放り込む。

放り込む足継ぎは、にわか仕立ての知識であり実践である。にわかに仕立てた足継ぎを、足の方から地に向かって放り込んで、それでよしとしてしまう。

しかし、それでよいはずがない。時代の空気の中にいるからには、足を継げば、継いだ分だけ地から離れるのが必定で、だからまた継いだはずの自分の足継ぎが地についていないと感じると、知識や実践を足継ぎの下に放り込まなければならない。

結果、継ぎ足した知識や実践が、もともとは確かな知識であり実践であったものが、ふわふわとした空気そのものになる。こんなことを繰り返して、我々は知識や実践をもともとの意味が失われたものとしてしまう。これも消費といってよい。

智慧というものからもともとの意味を奪ったものを知識といい、行というものからもともとの意味を奪ったものを実践という。あるいは、智慧というものを人間のものにしてしまうと知識になり、行というものを人間のものにしてしまうと実践になる、そう言うことができるのではないか。

仏教がより多くの人に、より分かりやすく伝えるために自らの思想を改良しながら広まったというなら、知識と実践の中で教えを消費するにすぎないこととなる。ますます地に足がつくことがない。

お念仏とは、と言う者が実はお念仏を知らない。お念仏もうしましょうといわれてお念仏もうせるものではない。

もともとの意味の失われた知識や実践を、時代の空気の中にしか生きられない人間がいかに評価し、いかに批判しようと、智慧や行は微塵も動じない。

念仏とは如来の智慧であり、如来の慈悲によって回向される行である。