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どこまでも (11/17)

時代の空気がふわふわとしていて、その中で起こることによって引き起こされた「感情」が仏教を説いている。あるいは、その「感情」を正当化しようとする説明に仏教を利用している。そういうことが事実としてあったと思います。

時代があって、そこに仏教がある。それはそれでごもっともなことで、例えば、時代に即応しないことを言っているから人が仏教から離れていくんだとおっしゃる方があります。それはその通りで、そういう仏教は確かにありますので、異論はありません。

しかし、親鸞聖人の明らかにして下さったお念仏の教えとなると、そういうものの言い方には大いに異論があります。そもそも本末転倒だと思います。時代があってお念仏の教えがあるということは、例えば、先の大戦中に言っていたことを宗派として反省したことがまったく形だけであるという結論に導きます。

ついでに言えば、そうでないと言い切れないような文章が例の『新聞』にはよく掲載されますが、あれは何なんでしょう。と、そんなことは関係のないことです。

我々は、自身が悪人であるということをどこまでも認めていかなければなりません。どこまでもというのは時間的なことにもなりますが、自身が悪人であると断罪するその自身が悪人である、そういう意味でのどこまでもということです。

私たちが如来のご本願のなかに生かされてあるということは、そういうことだと思います。そういうことだからこそ、誓願は成就されてご本願であり、お釈迦さまは釈迦牟尼仏であり、ただ他力をたのむ悪人は往生を遂げさせていただくのです。

思いつきで言うのですが、もしかすると、すべて人が仏教から離れてしまったところに、親鸞聖人の明らかにして下さったお念仏の教えがあるのかも知れません。そういう言い方が成り立つのかも知れません。こういう場合は、仏教に「いわゆる」をつけないといけませんね。