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「本願」 (11/16)

新宗教団連合編『親鸞』の中の竹橋太師「本願」より抜き書き

(ここから)
先ほどは仏を「業のみを説く者」としたが、つまり、業がその人の内容であって、その人がいて、業をなすのではないということである。言い換えれば、生きている人生こそが自分自身なのであって、自分がいて人生を生きているのではないということでなる。しかし、それは私たちには基本的には不可能なものの見方なのである。いつも外から自分自身を眺める構造は克服できない。その過ちは指摘されることはあったとしても、そしてそれを受け入れても、次の瞬間には、それを知った自分が、世界を見る自分として、自分の外側に君臨するのである。その「正しい自分=見る自分」は根本的には問われずに残るのである。その問題が克服されたのが不退転の菩薩である、ということになる。
(ここまで)

随分と難しい論考をなさっています。私などはついていくのが精いっぱいですが、上に抜き書きしたのは、その中のある一文です。

定型的と言えるようになっていると思われるお話や文章を聞いたり読んだりして、私にもいろいろと思うところがあって、ざっと検索しただけでも平成14年9月30日に「蛸壺のなか」、平成18年3月2日には「逆説」という確認のための文章を書いています。

こういう文章で私が確認したかったことと、竹橋師の「本願」の論旨は、もちろんレベルからして違うのですが、自分の書いた文章よりも、竹橋師の文章によって確認させていただいたことが私を納得させてくれ、有り難いことでした。

一時期聞いたり読んだりすることの多かったお話や文章は、ある意味で軽薄(そういう言い方をしてもまったく失礼ではないと思う)であり、言い方を変えれば、あまりにも楽観的であることに無自覚であったと思います。

竹橋師の文章を読んで、そういった難点を脱した思考のうえに成り立つ論考に初めて接したように感じました。

蛇足ながら、これはまた私なりの確認になりますが、少し付け加えます。

教えによって、人が人になって、さて、どうする。それで何か人間にとって根本的な問題が解決されるというのか。そういうことはあくまでも倫理道徳を言うものであって、だから仏教ではあるまい。仏教というのは人が仏になる道を教え示すのではないのか。