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根源的生命力 (11/15)

こういったことは学者でもなく、かといって、ただ静かに南無するだけということもできない私の個人的な解釈だと、確認のための文章を書き始めるにあたって、断っておいてのことになります。

そもそも大乗の菩薩は師である仏のもとで修行をし、悟りをひらいて仏となり、そこに仏土(浄土)がひらけるという一つの形が大乗経典には菩薩道としてあるようです。

ここで言うと順序がまったく逆のことにはなりますが、例えば親鸞聖人にとっては法然上人との出遇いが第十八願への帰入の転機となり、道綽禅師で言えば曇鸞大師との出遇いが浄土門への帰入の機縁となった。こういう実際にあった事実の積み重ねが、大乗経典に菩薩道として記されることの背景となっているのではないかと思います。

こういうことは曾我先生の「真宗の眼目」に詳しいのであって、今はひとくだりだけをここに抜き書きしますと、

(ここから)
仮に釈尊が千年二千年の命をのばしても、あの広大無辺なる諸大乗経を作り出すことはおそらくできないことではなかろうか、と私は思うのであります。それで、私は現代仏教学者が大乗経典というものを、ただ釈迦出世以後わずか数百年とかいう、そういう短日月の間に創造されたというが、それはそういうものが発展してくる、そういうものが生まれてくる、そういうものが作り上げられてくる、そういうことはただできるものだと独断的に予定しているものである、そう言うよりほかはないのである。
(ここまで)

というようなことをおっしゃっています。

いわゆるつきの常識である大乗非仏説は、確かに大乗経典の成立時期からすれば非仏説なのですから間違いはないのでしょうが、では何が仏説であるのか、何がお釈迦さまの直説であるのかといわれれば確定できないのもまた間違いでないわけです。

お釈迦さまの直説でないものは仏教でないと言うなら、仏教はない。あるとしても微かなものとなります。しかし、徒に学究的に過ぎる人や学問の対象とするだけの人たちが仏教を無いに等しいものにしているだけで、そういうことと離れて、仏教は常に今を生かされる私たちの根源的な生命力としていきづいているのです。

現に道綽禅師は曇鸞大師に出遇われました。現に親鸞聖人は法然上人に出遇われました。人類の歴史に脈々と伝統する根源的な生命の力が仏教であるのです。