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仏になる教え (11/14)

アビダルマの仏教でない限り、お釈迦さまと同様に悟りをひらいて仏となるのが仏教であり、お釈迦さまと同様の悟りをひらくための教えが仏教です。

道綽禅師は「涅槃経」研究の大家であり、その涅槃経には誰もが仏となる種のようなものを持っているということ、すなわち「仏性」が説かれているのですが、すでに末法の時代になっているということもあって、自力の修行をして聖者になって悟りをひらくこと、証を得ることが難であると決せられました。

一口に修行(自力修行)といっても様々な行があるわけで、どの行が悟りをひらくのに善であるかを誰が判断するのかといえば、それはお釈迦さまのほかにおられません。お釈迦さまはすでに入滅して久しいわけで、ですから経典に伝わる行がお釈迦さまの善となさるものであるということになります。

道綽禅師にとっては座禅がそれだったのであり、それは後の禅宗における座禅のようなものではなく、冥想に近いような、禅定を目的とした座禅だったのではないでしょうか。

禅師と尊称されるほどに座禅修行に励んでおられたけれども、48歳の時にかつて曇鸞大師がおられた玄中寺に詣でて、曇鸞大師の徳を讃えた石碑の碑文に出遇われました。曇鸞大師が仙経を捨て浄土の教えに帰されたということが書かれている碑文は、道綽禅師には大きな衝撃であったと思われます。

曾我先生の「真宗の眼目」の中に、親鸞聖人の三願転入について触れたところで「一念発起のところに転入がある。即ち転入と云うことは或は廻心ともいう。廻心はただ一度あるべし。一念帰命はただ一度である。その一念帰命のところにそこに十九の願を捨てて第十八願に帰入する。」とあります。

道綽禅師にあっては、この曇鸞大師との出遇いが「転入」あるいは「廻心」となったということはできないでしょうか。

「その一念帰命のところにそこに十九の願を捨てて第十八願に帰入する」ということの相似形が、道綽禅師にあっては座禅修行を捨てて浄土門に帰入するということであった。そういうことではないのかと思います。