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虚しい遠吠え (11/12)

11月8日から5日間にわたって書きましたことについて、「返信」が掲載されていました。

私がお尋ねしましたのは

「仏教は『無我(非我とも言う)』を説きますので、自分の魂なるものが永続的に残っていくという考え方はしません。なぜなら、それは差別につながる可能性があるからです。」

という文章について

1.「自分の魂なるものが永続的に残っていくという考え方はしません」の理由として「仏教は『無我(非我とも言う)』を説きます」と「差別につながる可能性がある」が二つ並列的にあげられているのか。

2.「なぜなら、それは差別につながる可能性があるからです」の「それ」は何を指しているのか。

以上二つのことでした。

以下が「返信」として書かれていたことの抄出です。

(ここから)
あくまで私の受け取っております仏教ではというお話になりますが、仏教では魂呼ばれるもの、「私」なるものが永続的に存続されていくという考え方はしません。それは「思ってはいけない」ということではありません。個人的に前世や来世を考えたり信じたりすることを否定しているわけでもありません。正直言って、仏教ではそういうことは「どうでもよいこと」であると思います。

それがその人にとって、とても生きづらい問題になっているならば別ですが、仏教は今を生きる苦悩について考えるものなので、死んで終わった後の事は、どう考えてもらっても良いのだと思います。それらはすべて「今」頭の中で考え、想像している世界だからです。

差別については、心の中で個人的に信じることは問題ないのですが、それが「ある」とした時に、人間は「善し悪し」という意味、価値をつけるからです。良いステージに生まれるとか、今苦しめば良い世界に生まれるなどです。正しく生きれば良いことがある、などは一見道徳的規範のように見えますし、間違いではないのですが、仏教はそういったものとはちょっと別の角度から物事を見ているということだと思います。

「我」なるものが「有る」と思いこむこと、有り続けたいと願うことは、ある意味人間の願いなのかもしれません。しかし、我なるものを有るとする時、そこに優劣をつけ、価値をつけてしまうのではないでしょうか。

無我ではない、「我ある」としていく考え方は、必ず差別を生み出していくというところから、差別につながる可能性があると書かせていただきました。

(ここまで)

何か、会話が成り立っていないように思います。
犬の遠吠えは、虚しいですね。