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犬が吠える-4 (11/11)

考えてみると、「自分の魂なるものが永続的に残っていくという考え方はしません。なぜなら、それは差別につながる可能性があるからです」ということは、転生の否定(我=アートマンの否定でもある)にすらならないのではないでしょうか。

ある事柄(例、魂なるものが永続的に残っていく=転生)を、それがもたらす別の事柄(例、差別)を否定することによって否定するのは正しい方法なのでしょうか。桶屋さんが儲かる(例、差別)のは道理に合わないから風は吹かない(例、魂なるものが永続的に残っていくとは考えない)といっているのと、どれくらいの違いがあるのでしょう。

風が吹けば桶屋さんが儲かる可能性はあります。問題は必然性でしょうか。風が吹けば必然的に桶屋さんが儲かるなら、桶屋さんが儲かるのは道理に合わないから風は吹かないというのは正しいのでしょうか。

つい吠えたがる犬の頭脳では明快な判断ができませんが、正しくないのではないのでしょうか。どなたか頭脳明晰な方のご教示がいただきたいです。

正しくないだけでなく、逆に桶屋さんが儲かるのは風が吹くからであるということを認めてしまうことになり、差別があれば転生があることを許すことにもなりかねないのではないかと思ってしまいます。

抜き書きした文章に「可能性がある」とありますが、転生思想はただちに差別に結びつくものではなく、差別に結びつかない転生思想もあります。むしろすでにある差別がそれを温存するために転生思想を利用します。

例えば今もヒンズー社会では「カースト」が残っています。ウィキペディアにある説明が詳しいのですが、それを鵜呑みにするとして、ヒンズー社会の土着信仰(ヒンズー教)の思想は絶えることなく、5千年以上も前に起源をもつ身分制度が根付いています。

「差別につながる可能性がある」どころか、ヒンズー社会では転生が人種差別の根本思想であり、転生を認めるから人種差別もなくならないわけです。人種差別を残すために転生を利用しています。

ところで、差別のない社会が何処にあるのでしょうか。日本にはないというなら、それは制度をいっているのですから、ヒンズー社会にも差別はないことになります。

今日の日本に厳然として差別があるからでしょうか(というと皮肉になりますが)、転生思想を肯定する人もたくさんいらっしゃるようです。こういったたくさんの人が認める転生が、すでにある差別を思想的に支えるようなものなら、論理的に転生は完全に否定できるのでしょう。けれども、うっすらとした、情緒的な転生の肯定は払拭できません。

あろうことか、仏教の側がうっすらとした情緒的な転生思想の肯定を促している一面もあります。そういう仏教もまた仏教と呼ばれるのですから滅多なことは言えないのですが、確かに言えることは、お釈迦さまは縁起を説かれたということであり、したがって、永遠不滅の我(アートマン)はない(アナートマン)ということです。
(あと一度吠えます)