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犬が吠える-3 (11/10)

「仏教は『無我(非我とも言う)』を説きますので、自分の魂なるものが永続的に残っていくという考え方はしません。なぜなら、それは差別につながる可能性があるからです。」

[無理がないと思える解釈−−−−−−−−−−
魂が永続的に残るとは考えない。その理由の一つとして仏教は無我を説くからであり、二つとして差別につながる可能性があるからである。
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この解釈でいけば、魂が永続的に残ると考えないのは二つめの理由、差別につながる可能性があるからであるということになり、魂が永続的に残ると考えないのは差別につながる可能性があるからであるとなると、これは分かりません。

お釈迦さまは縁起をお説きになり、それは我(=アートマン)という永遠不滅のものが存在することを否定することでもありました。差別につながる可能性があるから魂が永続的に残ると考えないというのは、順序がまったく逆です。

順序が逆でもいいのです、「仏教は『無我(非我とも言う)』を説きますので、自分の魂なるものが永続的に残っていくという考え方はしません。」という一節がなければ。差別につながる可能性があるから魂が永続的に残ると考えないというのが、お釈迦さまに始まった仏教での話でない一般論であれば。

お釈迦さまに始まった仏教が、差別につながる可能性があることを理由に魂が永続的に残ると考えないというのであれば、それは違います。何が違うかと言えば順序が違います。そもそも根本が違う。

根本が違うとどうなるかと言えば、差別につながる可能性のない転生思想があれば、転生を認めることになります。「『輪廻転生』という言葉はいつから流行しているの」か知りませんが、そういう流行の中で「何かテレビで番組を見た」人がおぼろげながら持ってしまっている転生思想は、差別につながるのでしょうか。

縁起であるから我(アートマン)はない、無我であるから転生はないという仏教の基本が抜けているから、転生を認める余地が残り、仏教ではなくなります。

仏教では差別につながる可能性があることを理由に魂が永続的に残るとは考えないという言い方は、明らかに間違った「意味の後付け」であす。お釈迦さまに始まる仏教は、縁起であるがゆえに無我であり、無我であるがゆえに輪廻転生(実体的な輪廻、あるいは実体的な転生)はないと考えるのです。そうお聞きしています。
(まだ吠えます)