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聞く-3 (11/6)

私がお話を聞きに行くのは、多くてもせいぜい百数十人程度の集まりなのですが、それだけの人数で居て聞いていても、聞くのは一人ひとり(この私ひとり)です。ですから、聞いていることが隣の人と別になっているかも知れません。

人間というか、凡夫というか、同じく悪衆生であって同じく了見を間違い、同じく我執にとらわれています。聞くことがそれぞれに別だとしても、聞くことによって向かわしめられるところは同じです。

阿弥陀さまのおはたらきは、おはたらきだから「動」であるということだと思うのですが、対象に限りがないのですから、すべての人が静かに南無する。

南無は必ず阿弥陀仏であり、阿弥陀仏があって南無がないということがないのと同様に、南無があって阿弥陀仏がないということはありません。曾我先生の言葉を借りれば静動一体です。

自身の了見の間違い、いかに我執にとらわれているかということをお聞きして、南無阿弥陀仏の仏道に向かわしめられる。これは、たとえばそれを拒絶し、それに抗おうと思いたつ心のおこるいとまもないことです。

私たちはことあるにつけ、やれ自由だ、やれ自分の意志がどうだこうだと言いますが、聞くということにおいては、そんなものは入り込む余地などありません。

無条件降伏という言葉がありますが、いわば無条件降伏を選択する以前に無条件で降伏するわけです。

無分別の智慧によって分別する知恵が無効になるとでも言えばいいのでしょうか。どうもうまく言葉で表現できまないのですが、ともかく、聞くということは、南無阿弥陀仏に向かわしめられるということにつきると思うのです。

「自由」という思いが取りはらわれればすでに法蔵菩薩と出遇っている。だから、法蔵菩薩との出遇いはいのちある者すべての宿業です。



以下参考

『顕浄土真実信文類』より
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。

曾我量深師『真宗の眼目』第1講より
『大無量寿経』には詳しく佛願の生起本末を説いたのであります。これは本願成就の文に依れば、即ち南無阿弥陀佛の六字名号を総体とし、それの別義なる謂れとして、佛願の生起の本末、即ち如来浄土の因果を本とし、衆生往生の因果を末とする事柄を詳細に表わしてあるのでありまして、これこそは佛道の浄土の本流である。

(下線は管理人がつけました)