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聞く-2 (11/5)

了見が間違っていて我執が募っている者が「聞く」のは、自身の了見の間違い、いかに我執が募っているかを聞くということだと思います。

意図して聞こうとするのが「聴く」であり、意図せずして耳に入ってくるのが「聞く」ということです。

何かを学び、何かを習おうとする時には、学びたいこと、習いたいことを「聴く」わけで、それによって知識や習慣を身につけるのでしょう。知識や習慣を身につけて、けれど、それは「聞く」ことの妨げになることはあっても、助けにはならないのではないのでしょうか。

畢竟、知識は間違った了見を間違った了見で繕う道具であり、習慣は形式という器の中身を奪う装飾です。必要だからあるのでしょうが、我執が己を護るのに必要であり、己の醜さを隠して満足を得るのに必要なのです。

自身の了見の間違い、いかに我執が募っているかが聞こえてくるのが「聞く」ということであって、「聞く」ということには必ず「南無」がある。如来のおはたらきだから「必ず」であるわけです。

『真宗の眼目』第4講で
(ここから)
南無の二字は一人で居る境地、阿弥陀仏の四字は大勢居る境地、南無は静かなり阿弥陀仏は賑かである。南無という境地は静かな境地。阿弥陀仏という境地は賑かな境地。まあ南無という時は静かで、もう何も音がしない。ああ静かな、こんな静かなところはない。そうすると南無のたちどころに阿弥陀仏がある。静かなたちどころに賑かがある。賑かなということ、静かであるということとが一体である。それを南無阿弥陀仏という。南無は是れ静なり阿弥陀仏は是れ動なり。南無の静かなところに阿弥陀仏の動きがある。静動一体である。
(ここまで)
とも曾我先生はおっしゃっています。