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お話-3 (10/31)

真宗という真実なる教えをお示し下さったご開山に感謝し、その徳を讃えることは、特に儀式というような意味合いでは、それは是非とも必要なことであるけれども、はっきり言ってそれ以上でもそれ以下でもないと私は感じている。

簡単に言えば、ご開山がご恩と感じられたことを、ご開山と同じようにご恩と感じられるようにならせていただくことが、ご開山への報恩ということである。これは、もちろんそれだけにとどまらないことであり、この私が念仏往生の道を歩ませていただけるかどうかということでもある。

ご開山は何にたいしてご恩ということを感じておられたのかといえば、たとえば恩徳讃には「如来大悲」「師主知識」とおっしゃっておいでで、身を粉にしてもほねをくだきても報じ、謝すべしとある。

ご開山が如来の大悲、師主知識にたいして感じておられた通りに、ご恩ということを少しでも感じとらせていただけるなら、そこから申させていただくところのなむあみだぶつは報恩であるといえるのだろうし、それこそが本当の意味での報恩ではないか。

後になって思い返してみるとそんなふうなことを話したのですが、思い返す今になって「浄土真宗」といい、また「真宗」ともいうことが興味深いことだと思えてきました。

もちろん本願寺派は別の理由から浄土真宗本願寺派と名のっておられるのでしょうが、「浄土真宗」というのは浄土教の真なる宗だと解釈できなくもありません。昔から言われる真宗十派では、本願寺派以外が「真宗○○派」と名のっています。仏教の真なる宗であると解釈できなくもありません。

もちろんご開山が「浄土真宗」と「真宗」を、こんなふうに意味を使い分けて言っておられるわけではありません。意味の後付けです。この「意味の後付け」の何と多いことでしょう。

後から意味を付け加えた(こじつけた?)「水子供養」や「永代供養」をなさっておられる真宗寺院もあります。

お話にしても、たとえば「平等」ということを教義から説明するのは分かりますが、現在の時代社会が共通に認識している(と思われる)意味から教義を説明するようなお話もあって、これはお話にならないわけです。