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あさきたとえ (10/22)

『安心決定鈔』には

天親菩薩の『往生論』に「帰命尽十方無碍光如来」といえり。ふかき法も、あさきたとえにてこころえらるべし。たとえば日は観音なり。その観音のひかりをば、みどり子よりまなこにえたれども、いとけなきときはしらず。すこしこざかしくなりて、自力にて、「わが目のひかりにてこそあれ」とおもいたらんに、よく日輪のこころをしりたらんひと、「おのが目のひかりならば、よるこそものをみるべけれ、すみやかにもとの日光に帰すべし」といわんを信じて、日天のひかりに帰しつるものならば、わがまなこのひかり、やがて観音のひかりなるがごとし。帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。かくのごとく帰命するを、正念をう、とは釈するなり。

とあります。

「帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、『わがいのち』とおもいたらんおり、善知識『もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ』とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、『わがいのちすなわち無量寿なり』と信ずるなり」は間違いではないうえに分かりやすいです。

「私のものにしている命を終えて、阿弥陀さまのいのちに帰るんだ」ということは、「帰命」の直接的な説明には相応しくないのかも知れません。けれども、間接的なというか二次的な説明として、決して間違ってはいないと考えます。