表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

化す (10/18)

「惑染凡夫信心発」について、教学研究所編『正信偈』では、「身体のすみずみまで惑いに染め ぬかれている凡夫が、ひとたび他力の信心を発(おこ)すならば」という意訳がつけられています。

平成18年12月号の同朋新聞で古田先生は

(ここから引用)
ここで注意しておかなければならないことは、親鸞聖人が「信心を発する」(発信心)ではなくて、「信心が発する」(信心発)といっておられることです。
(引用ここまで)

と書いておかれます。教学研究所編『正信偈』の意訳では「信心」は目的語として扱われているのですが、そうではなく「信心」は主語であり、「発」は自動詞であるということになると思います。古田先生の解釈が正確であると思います。

ところが、こういう文法的な解釈をするなら、「諸有衆生皆普化」は、「諸有衆生」が主語であり、「皆普」は副詞、「化」は自動詞ということになり、「あらゆる人々(諸有衆生)がみなことごとく化す」という訳になるように思えるのですが、諸有衆生皆普化について平成19年1月号の同朋新聞では

(ここから引用)
(惑染の凡夫が、阿弥陀仏の本願によって、無量光明土、すなわち阿弥陀仏の浄土への往生を果たすならば、やはり阿弥陀仏の本願によって、迷いの世間に立ち戻り、)あらゆる人びとを教化することになる
(引用ここまで)

と書いておかれます。惑染の凡夫が主語であり、あらゆる人々が目的語、化は他動詞とした訳になるかと思います。それなら原文が「皆普化諸有衆生」とでもなっていなくてはならないのではないのかと考えられます。
(続きます)