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往相と還相の関係 (10/16)

確か今年の春頃に送られてきた真宗教団連合編『親鸞』という本の中に小川一乗師の「回向−すべての人が仏陀と成るために」という文章があります。その「第4章 親鸞の回向思想」の「往相と還相の関係」から少し抄出します。

全文を書き写したらいいのですが、それはできませんので、あくまでも前後関係を抜きにした抄出です。まず「方向転換の回向」に似た二種回向において往相と還相との関係を述べられ、次に「質的転換の回向」に似た二種回向において述べておられる部分です。

(ここから)
・・・私たちは如来の回向によって往相し、浄土において無上涅槃を実現する。そして、往相した浄土から還相して人びとを利益する者となる。そのようなはたらきこそが浄土の本質である。「覚り」という智慧が慈悲となってはたらく、往相が還相として展開しなければ浄土は浄土たりえないからである。
 この場合、釈尊の「覚り」において、私たちの「いのち」は、「縁起するいのち」であり、本来的には「すべてはゼロ(空)である」から、私が死んで浄土に往生して、そこから私自身が再び来生するというような輪廻転生のような還相はありえない。そういうことではなく、この世において仏陀として往相し如来として還相した釈尊のように、阿弥陀如来の本願によって回向されている往相を、すなわち、阿弥陀如来の極楽世界生まれることを欲して生きる者の上に、他の人びとを往相せしめていく還相が重層的にはたらきでることである。親鸞が師である法然から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)との仰せを受けて、そこに還相の法然を感得したように、私たちにおいても、親鸞の上に、往相の親鸞と還相の親鸞が連動し重なっているようにである。
(ここまで)


「相は二つ、しかしながら体は一つであって、南無阿弥陀仏である」「往相があるのは還相があるからであり、還相があるのは往相があるからであり、往相があって還相がないということはなく、還相があって往相がないということはありません」と書きましたが、上に抄出した部分では、小川一乗師は「重層的」という言葉を使っておられます。

重層的とはどういうことかと私なりに考えると、少し違和感も覚えます。しかし、おっしゃっていることは分かるような気がします。どうしても私たちが「法」を言葉で言い表そうとするとことに無理ができてくるわけです。

如来のご回向がある。それを、親鸞聖人は師匠法然上人に還相の回向として感得せられ、往相の回向に回入せられた。こういうことは繰り返し繰り返し行われてきたことであって、それが相続である。

さて、私たちには、往相の親鸞聖人と還相の親鸞聖人が連動し重なっているだろうか。私たちは親鸞聖人をお浄土に往生させないままにしているのではないか。