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念仏者ならで (10/15)

「法然上人或人におしえて云。人の命は、うまきものを大口にくいて、むせて死ぬ事もあるなり。しかれば、南無阿弥陀仏とかみて、南無阿弥陀仏とて、くとのみ入るべし」


これは昨日書いた『一言芳談抄』のなかの法然上人の言葉です。わかりやすく、的を射ていると思います。智慧第一の法然房といわれ、勢至菩薩の化身と言われた方でした。

実は『一言芳談抄』のなかの言葉として紹介したのは、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』第3部からの抄出です。この『日本人の精神史』第3部で亀井氏は鎌倉時代初期の念仏僧の生き方のなかに「極めて微妙な問題」が発生したと書いておかれます。以下の通りです。

(ここから抄出)
一切の自力修行を捨てて、他力の念仏を励んでいるうちに、念仏そのものが当為性帯び、念仏という「形」に執したり、また心の工夫をかさねているうちに、そこに別のかたちでの自力性(分別)が生ずるのではないかという問題である。すべての信仰は何らかの意味で必ず「行」を伴う。修行と教化は絶対的なものだが、信仰の最大の敵である惰性と自己満足は、まさにこの「行」において生じやすいのだが、心戒の、「念仏者ならで、念仏申して往生すべし。」の一語は、深い用心を示していると言ってよかろう。
(ここまで)

念仏は行であり、あくまでもそれは如来回向の行なのですが、称名をするのが私の口であるかぎり、いつの間にか自力の行になります。

「煩悩をおこすということと、煩悩が身に染みているということは違う」と書きましたが、煩悩が身に染みている惑染の凡夫とは、遇い難いお念仏に遇ってもそれを自力の行にするだけでなく、自力の行になっていることに気づきもしないで、お念仏もうす自分を誇るものであるとも言えると思います。

自分のものしてしまったお念仏を誇り、自分の手柄にして、自分を誇ります。弥陀仏本願念仏 邪見きょう慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯です。