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証知 (10/12)

「証知」ということについて、教学研究所編の『正信偈』には説明がありません。同朋新聞の古田先生の説明では、

「証」は、「あきらかにする」「はっきりさせる」という意味です

とあり、「証知生死即涅槃」を

「正信偈」には、曇鸞大師の教えとして、「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、迷いのままに往生させていただくことが、はっきりと思い知らされる」と示されている

となさっています。


龍樹菩薩の空ということで言えば空即是色であり、色即是空であり、この色即是空の色を生死、空を涅槃と置き換えればそのまま生死即涅槃であり、釈尊の縁起ということで言えば、ご縁に因らない私があるのではないけれど、私はご縁に因って現に生きていて、現に生きている私はご縁に因っているのであり、ご縁に因らずにあるのではない。

こういったことは、惑染の凡夫には我が身のこととして知れるはずのないことで、だから「信心発」とあります。他力のご回向によって南無阿弥陀仏とお念仏もうさせていただくならばという、いわば条件がつけられているわけです。南無阿弥陀仏というお名号の徳については私がここで言うまでもないことです。

如来のご信心が、生死即涅槃であることを、この惑染の凡夫の身をもって証す。如来のご信心によって、惑染の凡夫である私は、我が身がご縁に因るのであると知らされる。論理として理解するのでなく、身をもって証され、身をもって知らされる。証知ということ、はっきりと知らされるということはそんなふうなことではないかと思います。

お念仏の歴史というものは身証の歴史であったはずです。阿弥陀(法蔵菩薩)さまの身証、釈尊の身証、七高僧の身証であった、それが南無阿弥陀仏の歴史であったのです。