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恩 (10/3)

 例えば、普段まったくしない運動をして筋肉痛になったとします。その筋肉痛を「果」として、なぜその果が生じたのかと考えたときに運動をしたという「因」があります。運動をしても筋肉痛にならなければ運動をしたことは因にはなりません。一般的に因果といえば、因(原因)があって果(結果)があると考えるのが普通なのでしょうが、仏教でいう「因果」は、主に「従果向因」といって、「果」からその果に至った「因」を知らせていただくことを指します。考え方の方向性が一般のものとは逆になるわけです。

 それだけでなく、例として「親子」ということを考えると、一般的には先にまず親がいて、その親が子を産む、まず因である親がいて、その果として子が産まれると考えるのが普通なのでしょうが、仏教的に考えると、親が子を産むのと同時に子が親を生むということになり、因と果は決して時間的な順序にしばられるものでないということになります。

 世の中には子宝に恵まれないご夫婦もたくさんいらっしゃるわけで、子供がいないときには親ではなく、子が産まれて初めて親になるわけです。子が親を産むというのは、こういう事実を表しているわけです。

 考え方の方向性や時間的順序が固定されるかどうかなど、一般的な「因果」と仏教的な「因果」とで随分と違いがあるのですが、はたしてどちらが道理にかなっているといえるのでしょうか。

 総じて言えば仏教的な「因果」が道理にかなうものだと言えると思うのですが、これに同意していただけるとして、それでは、私たちが普通に思っている「因果」とはいったい何なのでしょう。世間一般に通用している「因果」というものは、実は私たちに迷妄をもたらしているだけのものではないのでしょうか。

 「恩」という漢字を見たままにいえば、因という字の下に心があります。今現在を「果」として生かされている私たちですが、私たちの思慮を超えたところで私を私であらしめて下さっている「因」を知らせていただいた「心」に、単なる言葉ではない「ご恩」というものが生まれるといただいてはいかがでしょうか。

 ご恩に報いるということがない人は、迷妄の闇の中をさまようだけの人です。

(平成21年報恩講の案内文書の抜粋)