表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

信心 (10/2)

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心

『正信偈大意』には「正定之因唯信心」を釈して「正定の因は信心をおこさしむるによれるものなりといえり」とあります。



他力のご回向によって信ぜしめられるところに信心がはじめてある。それは賜りたる信心である。ご信心を賜ったとき、我執・我所執まみれでしかない「私」であると分からせていただいて、そこから離れるということがいよいよ始まる。

正定ということ、仏となるべき身と定まるということは、「私」が今まで思っていたような「私」であるのではなく、如来が私となっていて下さるのであるという事実の確認の繰り返し、その積み重ねの結実であって、言ってみれば、如来が私となりきって下さるということである。

「私」は私であるのだけれど、私であるだけでなく、如来が私となっていて下さる。我執・我所執だけがあるのではなくて、それらに覆われて自分でも気づけなくなっているのだけれど、本来の、本能としての願いがある。我執・我所執に振り回されるだけなのではなく、いのちのご縁をいただいたところに願いがある。そのことに、身をもって、体験として気づいていくなかで、如来は私となりきって下さる。

これは次に続く「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」とも関係してくることだけれども、惑染凡夫が惑染凡夫のままで仏となるべき身と定まるということは普通にはなかなか同意できないに違いない。けれども、惑染の凡夫であるからこそ仏とならねばならないのであって、仏・菩薩・如来に仏となるべき身と定まるということはない。