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焚焼仙経 (9/29)

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

曇鸞大師は仏教の僧侶であったのですが、「大集経」註釈の途中で病になり、快癒の後に長生を目的として道教の教えを説いた「仙経」を尊ぶようになっていたとのことです。

「大事業をなすにはまず長生の法をおさめねばならないと決心して」と教学研究所編の「正信偈」には書かれています。「まず」というひと言に注意すべきなのでしょう。

目的があり、その目的を達成するための手段というものがあります。的を射た譬えというのがなかなか見つからないのですが、例えば、生命を維持するために食事をするということでは、生命を維持することが目的であり、食事をすることは手段であるわけです。

ところが、どういうわけか、いつの間にか、本来は手段であったはずのことが目的になるのが常のようです。生命を維持することが本来の目的であって、食事をするのは手段であったのに、食事をすることが目的になる。そうして、少しでも美味しいものを少しでもたくさん食べるようになります。

美味しいものをたくさん食べるためにはお金がかかりますから、すこしでもたくさんのお金を手に入れることが手段となります。手段が目的となると新たな手段ができて、その手段がまたいつの間にか目的となり、これが幾度か繰り返されるうちに、本来の目的は忘れ去られてしまいます。

いのちのご縁をいただいて、生かされてある事実に気づかせていただくうちに、いのちのご縁の尽きるまでにこれだけは成さなければならないということができてくるはずです。それが本来の目的であるのか、それとも、もともとは手段であったのかということを、常に問い続けなくてはならないと思います。

「印度より来られた菩提流支三蔵が、真の安楽長生の道はこれ、と、浄土の教えをさずけられたので」、曇鸞大師は惜しげもなく仙経を焼き捨てたと教学研究所編の「正信偈」には書かれています。「要点」と題した文章には「真の長生」ということも書かれてあって、もちろんそれが正しい解釈です。

で、私なりの「想像」を蛇足として以下に書いておきます。

すでに仏門に入りながら「仙経」を尊んでおられた曇鸞大師は、ご自身がもっておられた本来の目的が何であったのかということにお気づきになったのであり、大師がそういう回り道をなさったというか、落とし穴に一度は落ちた方であったからこそ、他力回向による南無阿弥陀仏こそが仏教であると、身を以て知ることができた。論証だけでなく身証があったからこそ、結果として、他の人々をお念仏の教えにみちびくことになったのでしょう。