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親鸞の仏教史観 第5講-16 (9/22)

だからこの自性唯心と定散の自心という二つを二人の人に分けて見るという見方も一応道理であるけれども、私はむしろそれを一人の人について見たならばどうであろうか。これは自分の一つの見解であるのであります。自性唯心と定散自心というのは二つ別の方向に傾いているのだとも言われるし、また一人の人の自分の信念というものの一つの内省においてその二つというものが同時に成立する。そういうことが考えられるのでなかろうかと思うのであります。

かくのごとくして親鸞は、行巻の上に名号展開の歴史的事業、その歴史的事業というものにおいて、直ちに自分の信念の歴程、自分の己証の安心の歴程というものを示したのがすなわち信巻というものであると思うのであります。

親鸞によりますと、われわれの真の仏道の自覚は念仏の歴史の中にあって、しかもこの事業に参加していくことであるが、歴史の中にあるもののみが本当に歴史に参加し得る。こういうことが親鸞の歴史観、すなわち親鸞の『教行信証』の安心である。つまり象徴荘厳成就の南無阿弥陀仏の中に純一無雑の願心の南無阿弥陀仏を見い出してきた。南無阿弥陀仏の法の歴史の中において、南無阿弥陀仏の超歴史的己心の安心を見い出した。

おもうに念仏を正信するということは念仏伝統の歴史より生まれて、念仏の世界において、念仏の歴史を超えて、かえって念仏の歴史を作り、念仏の歴史の不滅の法燈を証明する事業であります。観仏三昧の称名のごとく、本願成就と没交渉に、単に完成せる名号を詠嘆することではないのであります。

まことに南無帰命の如来招喚の勅命に、連綿たる念仏伝統の歴史を超えしめられ、それは法爾自然に否定せられて、私どもはまさに法蔵菩薩発願の初一念に立たしめられ、ここに新たなる真実の念仏の歴史はまさに創(はじ)められる。かくしてわれらは凡夫のままに不退の位に入り、諸仏の家に生まれたのである。かくしてわれらはやがて念仏伝統の歴史の諸仏の一位を占めることになる。真実に流れを汲まんものはすべからくその本源を尋ねなければならない。ここに初めて正信の自証がある。

もはやまったくお話ができないほどに疲労を感じますので、これでこの講演を終わらせていただきます。講演を終わりますに当たりまして、私はこの会を主催してくださいました興法学園の諸々の同人諸君、ならびに興法学園同人諸君の企画に賛同してそうしてこの会を成立して、同人諸君の志願を満足してくだされまして、三日間、はなはだ散漫な講演を始終静かにご静聴くださいましたことを深く感謝いたしまして、この講演を終わることにいたします。

(親鸞の仏教史観 全講おわり)