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親鸞の仏教史観 第5講-15 (9/21)

こういう具合に述べまして、それからしてその当時、その時代の人々の安心というものが諸仏伝統の道というものを無視して、ただ、自性唯心、すなわちいわゆる独断論独我論、伝統の歴史的必然というものを無視したところの、ただ個人勝手の小我論的自見的な己証であります。そういう勝手突飛な己証の安心を自性唯心というのであります。自性唯心というのは、独りよがりであり、独我的独断論である。独我論というものはいかにも自分にはめでたくおさまっているようだけれども、そこに何か知らないが落ち着きがない。つまりその人自身が非常に驕慢得意になっている。得意になっているようだけれども、公平謙虚の求道心を欠乏するために、深い自覚的確証なく、何となくそわそわとして若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)である。すなわち「定散
の自心に迷うて金剛の真心に昏し」と、この「自性唯心に沈んで浄土の真証を貶(へん)す」と、これが二種の別の人だと解釈するのも一つの方法である。

古来みなそのように見られていたけれども、思いますに、これは一人の人の上にもまたこの二つが同時に成り立つものでなかろうか。その人の主観的自覚におきましては自性唯心である。独りよがりであり、独断論であり、独断的信仰である。証において独断的自証は、信の立場から見ればただ一つの定散の自心である。独りよがりはふらふらである。ふらふらであるから独りよがりをしなければならない。ふらふらでない者に独りよがりをしなければならない必要がない。だから独りよがりができるということはいかにも偉そうではあるけれども、独りよがりをしなければならない必要がある。そういう要求をするということは、その人自身において心がふらついているためでなければならない。すなわち、定心と散心との間にふらふらした未決のところがある。いわゆる若存若亡である。定心というのは若存であるがごとく、散心というのは若亡でなきがごとし。信仰があるようにもあり、ないようにもある。独りよがりができるということから言えば、信念があるようである。独りよがりをしなければならないということから見れば、信念がないようである。それを定散の自心と名づけるのであります。

(親鸞の仏教史観 第5講より)