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親鸞の仏教史観 第5講-13 (9/19)

諸仏の称名は水に画ける文字でなく、金剛に彫刻せられたる不磨の文字である。如来の本願をして永遠に生命あらしむるゆえんの無上の方便である。常に名号をもって衆生を招喚し、信心を開発せしめて光明海中に摂取したまう。これ六字名号の歴史的意義であります。単なる阿弥陀仏には歴史がない、南無阿弥陀仏において歴史がある。まことに六字名号には、南無を主とすれば法蔵菩薩の発願修行の因位を摂し、阿弥陀仏を主とすれば十劫正覚以後釈尊七高僧伝統の果上の歴史を摂し尽くす。それは単なる阿弥陀仏の観想でなく、遍法界(へんほっかい)の歴史が一時に現在して称名の叫びをあげる。しかしながら第十七願は主とするところは果上の歴史である。さらに一層深く名号の淵源、本願の秘奥としての形なく因位を開顕するは、まさしく第十八の王本願に帰入しなければならない。第十七願開顕の行巻は善導大師の六字釈のごとく、如来因位の深重なる発願回向の願心を念ずるによって、「即是其行」の果上体験を示すを目的とするが、第十八願を開顕する信巻は、善導大師の『観経』三心釈(さんじんしゃく)によって、名号の体験を通じて、深無底の法蔵菩薩因位の先験的心境を思念推理せられたのである。今特に先験的心境と言うけれども、もちろん果上体験によって映し出された境地である。

まことに第十八念仏往生の本願を念ずれば、

たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

(『聖典』十八頁)


この世には、初産の妊婦が切にいまだ見ない胎児を真実にわが真実の家の子として、絶対完全に産み出そうとおもう切なる祈りの心境をもって、いささかこの本願の一端を推知し得るであろうか。けだし法蔵菩薩は十方衆生を妊(はら)める南無の位であり、阿弥陀如来はそれをまさに産みたる阿弥陀仏の位である。

(親鸞の仏教史観 第5講より)