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親鸞の仏教史観 第5講-12 (9/18)

単なる果上の阿弥陀仏、四字名号は自性唯心の観仏の個人行にすぎず、因願をまっとうしたる因願酬報(いんがんしゅうほう)の真身の阿弥陀仏は南無阿弥陀仏の本願念仏の大行によってのみ体験せしめられる。真実果上の阿弥陀仏を見んとするならば、すべからく従果向因して因位本願を内観しなければならない。因位の本願は帰命の一念において本願招喚の勅命を聞かねばならない。この帰命の招喚に接することは、まさに因位の六字名号を先験せしめたまうことによって、ここに直ちに果上の阿弥陀仏を明証する。これすなわち願成就の経文に「聞其名号信心歓喜」の信心成就の一念に、本願の欲生心を成就するがゆえに、「即得往生住不退転」の現証を得ると説きたまえるゆえんであります。

『教行信証』行巻は、ゆえに単なる観仏的称名でなくして、真の如来本願を憶念するところの念仏的称名である。真実の本願酬報の尽十方無碍光如来の名を称するのである。ここに六字名号がある。ここに「即是其行」がある。ここに「聞其名号信心歓喜」がある。ここに「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳大宝海を満足せしむ」がある。ここに「彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称名必得往生」がある。したがって、それは単なる所信の行ではなく、まさしく所証の大行であり、正信念仏をもってその帰結とするのであります。これが六十行の正信念仏偈をもって行巻が満了するゆえんである。存覚上人によれば、正信念仏とは「所行の法に就(つい)て能信の名を挙ぐ」と釈した。まことに卓見と言うべきである。けだし、所行の名号の伝統の歴史において、信ぜざるを得ずして信じ得るの道理を明らかにするのが正信念仏の意義であり、第十七願の諸仏称名の願はここ正信偈百二十句の完成によって願成就を証験せられたのであろう。

(親鸞の仏教史観 第5講より)