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親鸞の仏教史観 第5講-11 (9/17)

私は昨日、『大無量寿経』に先立って本願あり、本願に先立ってすでに名号があると申したのでありますが、これはすなわち「阿弥陀仏即是其行」の道理を表明したのであります。「即是其行」の其の文字は源、本願成就の文の「聞其名号」の其の字が流れ来たったものである。「聞其名号」の其は直ぐ次上の経文の無量寿仏の威神力(いじんりき)である。威神力とは本願力の威神である。すなわち『大無量寿経』には「威神力故本願力故」といって、この威神力は本願力の功徳にほかならない。したがって、この「即是其行」の其の文字も南無の超越的意義なる発願回向、すなわち如来平等の発願回向のお心である。かくして「阿弥陀仏即是其行」とは、阿弥陀仏は単なる孤独的観念の四字名号でなく、それは南無を具足し、また南無に具足せる阿弥陀仏である。四字名号の開顕する境地は自性唯心の独我論懈慢(けまん)の界である。南無阿弥陀仏の六字こそは真実大行すなわち念仏三昧にして三宝円満の浄土の真証の境地である。六字名号の開顕する浄土こそは歴史の浄土、大行の浄土である。

われわれはいたずらに漠然たる今の果上の阿弥陀仏を所信の対象としていないか。単なる所信は観念境にすぎない。真実信の対象は単なる所信でなく、それは所行であり所帰でなければならない。真宗従来の講者は漠然として所信所行を口にし、また所行能行を対立的に考えた。所信とか能行とかいうことは単なる観念主義者の用語でしかない。所行という語にのみ重大なる現実的意義を有する。あるいは乗(じょう)(のりもの)とも、法とも、道とも、理とも、命とも、業とも、教とも申します。それは単なる個人的の行ではなく、信をもって真実信ならしめる客観的原理根拠、信がそれにおいて現行(げんぎょう)する依処である。

したがって、まさしく所行の名号において、すでに能信の信の根源がある。その信の根源において、そこに念仏の大行の本願がある。「本願招喚の勅命なり」とはまさに所行のところにおいて能信の機を発見し、「発願回向と言うは、如来すでに発願して、衆生の行(ぎょう)を回施(えせ)したまうの心なり」とは能信の端的において、因位の名号、南無阿弥陀仏の本願の原理を先験したのである。この因位先験の南無阿弥陀仏において、そこに果上の南無阿弥陀仏を体験したる境地が「阿弥陀仏即是其行」であります。

(親鸞の仏教史観 第5講より)