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親鸞の仏教史観 第5講-10 (9/16)

この欲生心の招喚によって、久遠以来まったく具体化の縁を欠いていました純一の願作仏心、それは本性純一のゆえに、われわれ衆生にあっては到底自力をもって具体化する機なきゆえに、それは常に邪定(じゃじょう)の機に動乱せされ、久遠以来常に迷信邪教に陥入(かんにゅう)しつつあった。ここに如来選択の善巧の妙機は発動して、ついにわれわれ衆生の久遠一如の信楽、真実の願作仏心を初めて具体化せしめたもうたのであります。

親鸞がかくして第十八願の王本願を証験せられました端緒は、願成就の文の中心眼目たる至心回向、「至心に回向したまえり」の真言においてまさしく本願の欲生我国の願心の成就を感得し、善導大師の「彼仏今現在成仏」の叫びにいまさらに驚かれたことによるのである。まことに彼は寂然不動清浄無相の信楽をあるがままに内観するところの慧眼(えげん)として、それの中心として欲生心が回向されてあるを証得せられた。この証得がすなわち現生不退である。これによって彼は善導大師の名号釈の「言南無者即是帰命」の、あの即是の二字に注意して、衆生の帰命信順において現に動く如来の願心に触れて、主観的帰命を超越して、客観的である本願招喚の勅命と直観せられた。このような釈は、おそらくは即是帰命の即是の二字に触れてのことでありましょう。

かくて彼はこの帰命の勅命を通して深く遠く広大無辺なる如来の願心を念じました。ここに映じ出されるのは願心の所為なる衆生の煩悩罪業の深重の事実であった。これを痛感する時、「阿弥陀仏即是其行」、「即是其行と言うは、すなわち選択本願これなり」。帰命の当体に天地万物ことごとく南無阿弥陀仏と転ずるのであります。

(親鸞の仏教史観 第5講より)