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親鸞の仏教史観 第5講-9 (9/15)

かくて、親鸞はこの行巻において、第十七願・諸仏称名の精神によって、特に善導・法然二師の釈義の精要を開顕し、古今の迷謬(めいびゅう)たる単なる阿弥陀仏四字名号主義の念仏を楷定(かいじょう)し、毅然(きぜん)として如来の選択本願の正意、六字名号の仏意を宣明せられました。『歎異抄』によれば、親鸞は法然上人から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」の仰せを受けられた。この「ただ」こそは一面には易行の大道を示すとともに、その易行なるところには如来選択の願心によることを顕し、極難信の道を表明したのである。まことに弥陀永劫のご辛労(しんろう)、釈尊七祖の深重のお骨折りは、単に念仏ということではなく、この「ただ」の二字のためであった。「ただ」は選択である。一心をもって一行を選び取り、他の一切を選び捨てる大信心である。これまさしく一心による一向である。

親鸞は弥陀の王本願、第十八の念仏往生の誓願を拝誦するに当たって、その乃至十念の念仏の行を第十七願・諸仏称名の願の念仏伝統の歴史において発見するとともに、その至心信楽欲生の心を、願成就の文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の衆生の信楽開発(しんぎょうかいほつ)の一念の機、すなわち正定の現在時において発見せられました。歴史的伝統において念仏は称名である。それは称名は念仏の形相であるからであります。

しかしながら、真実の念仏は称名によって象徴荘厳せられつつ、それの本性は常に称名を超越して、直ちに如来選択の願心を回向表現する。如来の選択の願心はまさしく本願三心中の第三の欲生我国であって、善導大師は二河譬(にがひ)において、これを西岸上の招喚の声とし、もって本願象徴の原理とされました。すなわち、親鸞はこれによって欲生をもって如来の回向心とし、まさしく欲生我国を直観して「如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり」と解釈されました。この欲生こそは、如来がまさしく現に無明に迷惑しつつあるわれら衆生を招喚覚醒せしめたまう善巧方便の至極、浄土荘厳の根本原理、信楽開発の契機であります。この欲生我国の願文こそは、如来本願力の尖端であります。

(親鸞の仏教史観 第5講より)