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親鸞の仏教史観 第5講-8 (9/14)

この七高僧の伝統、南無阿弥陀仏の歴史、南無阿弥陀仏が内には本願自らを成就し、外にはそれの正機衆生を摂取する、外に衆生を救うということが、直ちに内に自らを成就するゆえんである。こういう具合に三国七祖の伝統というものの根源を第十七願というものの上に見い出してきた。してみると、諸仏というのはまず少なくともこの七人の仏、七仏である。親鸞から見れば七人の祖師はすなわち過去の七仏である。釈尊にも過去の七仏があった。親鸞にもまた過去の七仏がある。そんなことをいうと調子を合わせて何か言うているようであるけれども、偶然か必然か知らないが、その偶然において必然を観ることができるでありましょう。釈尊の過去の七仏に対して親鸞に過去の七高僧がある。過去の七高僧は過去の七仏である。ここに仏の問題が存在する。

全体仏とは何であるか。仏というものは如来の本願展開の歴史の中より誕生して、その歴史の流れの中に帰入した人である。歴史の中に寂滅したのはすなわち化仏である、寂滅しているものは法身仏である、歴史において永遠に生きているところの人は、すなわち報身仏である、こういう具合に言うことができるでありましょう。七高僧はこの念仏の歴史において死んだ、念仏の歴史の大地において骨を埋めた。そういう意味においては七高僧は過去の七高僧である、過去の七仏である。しかして、その七高僧を通して念仏の道が永遠に生きている限りは、念仏の声が永遠に生きている限りは、七高僧は本願念仏の大地において現に今日生きており、また永遠に生きているのである。こういう具合に言うことができるのでなかろうかと思うのであります。

かくのごとき意義を第十七願というものをもって親鸞が証明しているのであります。これはまことに古今独歩の証明であります。

この行巻は、第十七願・諸仏称名の願に始まって『正信念仏偈』に終わっている。あの正信念仏偈というのはただ単なる念仏ということではない、念仏の歴史である。念仏の歴史全体を念仏というのであります。南無阿弥陀仏というは、われわれが称えることによって初めて南無阿弥陀仏が成立するのではない。親鸞によれば、仏教二千年の歴史全体が南無阿弥陀仏であった。念仏というはただわれら個々の念仏ではない。念仏はその本願の歴史にある。その歴史を無視した個人の念仏を自力念仏と申すのであります。本願念仏というのは歴史の中にある念仏、歴史の中に流れている念仏、歴史を統一するところの念仏である。

(親鸞の仏教史観 第5講より)