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親鸞の仏教史観 第5講-7 (9/13)

そこで親鸞の『教行信証』の行巻というものは何であるか、これはご承知のとおり、第十七願・諸仏称名の願というものによって浄土真宗の伝統を明らかにしたもの。すなわち第十七願・諸仏称名の願というものによって三国七祖の伝統というものの根源を明らかにした。伝統の根源は第十七願である。その第十七願というのはつまり浄土教の歴史の事実原理である。仏教の歴史の事実原理である。この親鸞の仏教史観というものは、まず第一に第十七願・諸仏称名の願に事実的原理を見い出された。

たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。
(『聖典』十八頁)


この願文は昨日すでに一応の意義を申し述べましたが、きょうは正しくこの願文の本義を明らかにしたいと思います。これは昨日も話しましたように、十方無量の諸仏といえば何か天の星座でも指して言ったのでないか、というふうに、私どもは長いあいだ思っていたのであります。しかし、そうでないのでありまして、この地上におけるところの教主釈尊の興世、続いて連綿たる三国七祖伝統の歴史、インドにおけるところの龍樹・天親、中国におけるところの曇鸞・道綽・善導、日本におけるところの源信・源空、この三国の七高僧の伝統の歴史であります。その伝統の歴史の根源、伝統の歴史の事実原理、それを第十七願の上に見い出す。こういう具合に親鸞は浄土教の歴史というものの根源、浄土教というものの歴史の発端(ほったん)はどういうところにあるかということ、ただいつでも私のはからいというものを交えないというところが非常に注意を要することでありましょう。

それだからして行ということは何であるか。行ということは南無阿弥陀仏の伝統、南無阿弥陀仏の流伝である。南無阿弥陀仏が流行する。行とは流行です。これを歴史的に言えば南無阿弥陀仏の名号の流行、流れ行われることである。その南無阿弥陀仏の名号の流行、それを七祖の伝統という一つの事実の上に見い出した。七祖というものも、これはその時代時代の多くの民衆、その時代時代の時代精神、時代思想というものを背景として、あるいはそれを契機として、その機に応じて阿弥陀の本願というものが流行した。流行するということはすなわち名号の精神をさらにさらに明らかにして、そうして民衆というものに名号を高く掲げて、内には深く法を興し外には広く迷える衆生を利する、これがすなわち七高僧というものの使命であります。それゆえに七高僧に代表せられる、七高僧とは七人でありますけれども、その七人の高僧の背後には、その時代の無量無数の民衆というものがある、その無量無数の民衆を代表しているところの七高僧である。

(親鸞の仏教史観 第5講より)