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親鸞の仏教史観 第5講-5 (9/11)

親鸞によれば、今の科学的研究というものからは二束三文のものだということになるようでありますが、しかしながら、親鸞があの『楞伽経』懸記の伝説というものを信じて、そういう不確実なる伝説をそのまま受け入れて、そうして『正信偈』の中にもそれを引いているし、また『高僧和讃』龍樹章の第二首第三首におきましてもこの『楞伽経』懸記の文というものをもってこの龍樹の仏教史上におけるところの位置、使命というものを述べておるということは、一概に親鸞が歴史ということに暗いためにああいう不確実な伝説というものをそのまま盲信したものであると、そういう具合に観るということはいかがなものであろうか、と私は思うのであります。

親鸞は『教行信証』の中にいろいろの経典の文字を引用するにしましても、経典から直接にそれを引用するということをせずに、むしろその経典が他の著書に引用された、その引用文を通じて経典を引いている。これは親鸞は直接に経典が手に入らず、またそれを読む機会がなかったから孫引をしたと、あるいは今日の人々はそういう具合にいうかも知れないが、それはそのままにしてそれを認めて差し支えない。しかしながらそれを認めるとともに、ただいたずらに原典を読まなかった、読む煩いを避けてただ孫引した、ということだけではないと思うのであります。

親鸞におきましては、教法の伝統、教法流伝ということを非常に重大な事実としてこれを認めておいでになったのでありましょう。かりに、その人の頭にどんな深遠(じんのん)な道理を考えても、それが単なる空理であるならば何の価値もないのである。だから、いかなる真理というものも、それを裏づけるところの行が大切であります。この実行実践というものがないならば何の価値もない。実践実行のないところにおいては歴史がないのである。

(親鸞の仏教史観 第5講より)