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親鸞の仏教史観 第5講-4 (9/10)

親鸞はこの龍樹出世の使命というものを『楞伽経(りょうがきょう)』の懸記(けんき)の文(もん)というものによって述べているのでありまして、仏滅後七百年南天竺に比丘あり、龍樹と名づけるのである、有無の邪見を破して大乗無上の法を宣説(せんぜつ)し、歓喜地(かんぎじ)を証して安楽に生まれるであろう。こういう『楞伽経』の予言がある。これも批判家によって見ると、やはり『楞伽経』にそういうことを書いたのは龍樹が死んだ後にそういう言葉を入れたに違いない、予言に仮りて仏教史上におけるところの龍樹の位置を高からしめんがために、龍樹の門弟かあるいは何か龍樹に深い関係のある人人が後から経中に附加したに相違ない、こんなふうに説明するのであります。

あるいはそういうふうな意義も必ずしもないというわけではないでありましょう。しかしながら、そうであるからといって、ただそれだけのことだと決めることはできないと思う。それならやはり私は思いますに、龍樹というような人間がそういう一大仏教史上において第二の釈尊、第二の教主である。第一の教主釈尊というものは、昨日申しましたように大乗仏教の経典において、深い遠いところの背景をもって、そうして釈尊というものをそこに見い出されたのである。

したがって第二の教主たるところの龍樹というものも、またおそらくはさまざまの伝説、つまり時代の思想及び生活の堕落、あるいは人間の弱さ、それを泣き悲しみ、自分の宿業というものを深く痛感して、一切衆生の救いというものを念ずるところの願い、その願いが龍樹というものを生み出した使命に違いない。そういう意義が龍樹の『楞伽経』(りょうがきょう)の懸記というような文字として、かりにそれが龍樹以後にそういう言葉として具体化されたものであるにしましても、そういうことが一般民衆に信ぜられるということだけを考えてみましても、この第二の教主たるところの龍樹というものがこの世界に顕現する、仏教の歴史の中に生まれて新しく仏教の歴史というものを荘厳したところのこの龍樹というものの現れてくるということは、決して一朝一夕のことではない。つまり偶然のことではない。単なるただいささかの縁というもので生まれてくるのではないのでありまして、それはやはり久遠劫の深き誓願の約束というものからして、如来の誓願というものを後盾にして、そうして龍樹というものが現れてきたものでなければならない。

そういう一つの感じ、そういう意義をば具体化し象徴化したものが、『楞伽経』の懸記の文というものになったのでなかろうかと思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第5講より)