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親鸞の仏教史観 第5講-1 (9/7)

昨日は、浄土真宗というのは親鸞の仏教史観である、ということを話してきたのであります。すなわち親鸞によりますと、二千年の仏教史の根幹は何であるか、二千年の仏教史の根幹はすなわち『大無量寿経』伝統の歴史である。それはすなわち念仏流伝の歴史であり、如来の本願展開の歴史である。こういうような意義をだんだん話をしてきたのであります。

それで、仏教の歴史というものはその時代というものを三つか五つかに区別している。昔から正法、像法、末法というようにして、正・像・末の三時というような区別が行われています。昔から、親鸞が伝えておりますところによりますと、正法は教法と、それの如説修行と、行による教法の証得と、この教・行・証の三つの法が完備している。仏滅後五百年間はだいたいにおいて三法完備の正法時代である。それに続いて次の一千年のあいだを像法といいまして、その時代におきましては、教と行との二法はあるけれども、その行を満足することができない。すなわち証を得ることができない。またその次の末法万年という時代は、ただ教えという教法だけはあるけれども・・・・・教法はあれどもこれを教えのごとく如実に修行しようとするものすらない。したがって教法の精神を体験するということは末法においては必然にないのである。こういう具合に伝えられているのであります。それが新しいところの仏教研究のの方法なんかにしても、仏教の年代というものをいろいろに区別しておられるでありましょう。

だから、そういうふうに年代をだいたいにおいて区別するということは、別に間違いはないと言っても差し支えないでありましょう。しかし、そうであるからといっても、仏教の大精神というものは淳一に相続しまして、むしろ形式の上においては、だんだん仏教というものは堕落し衰微し破滅する。教団の形というものは日に日に乱れる。それにもかかわらず仏教の大精神というものはむしろ逆に、これを縁としこれを契機として、いよいよ深く深く展開されていく。きょうはそのことをだんだん考えて話したいと思うのであります。けれども、仏教の精神はそういう具合になっていく。

昨日ははなはだ乱暴な言い方をしましたけれども、例えば、仏滅後三百年なり四百年なりのあいだにおきましては、この仏教々団というものが小乗二十部というような部派に分裂して互いに争った。そう言う争いというものは畢竟ずるに、名を教えの真理というものにかりて、その実は僧侶たちが権力の争奪ということをほしいままにしているのである。こういう具合に申したのでありますが、しかしそう言ったからといって、私は単にいたずらにその当時の僧侶たちが権力の争奪ということばかりにふけっていたと、そう一概に言うのではないのであります。

むしろそれは、法の方から言えば概念化、道徳的にいえば律法化している、そういう形式を破って、いよいよ深く深く法の精神を深める契機である。そういう深き意味をもったものとして観るならば、この小乗二十部の争いというものも、また単にいたずらなるその当時の僧侶たちの争いであると観るべきでなくして、それらの争いというものを契機として、真実の仏教の精神、仏教の本当の根本精神というものがいよいよ発揚されてきたのでありましょう。したがってこの仏教の根幹、根幹の仏道というものはずっと二千年を一貫して変わらないものである。

(親鸞の仏教史観 第5講より)