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親鸞の仏教史観 第4講-17 (9/6)

つまり仏教三千年の歴史は『大無量寿経』流伝の歴史である。『大無量寿経』流伝の歴史というのはすなわち念仏流伝の歴史である。念仏の歴史の中に『大無量寿経』というものがだんだん完成して来たったのである。『大無量寿経』というものは念仏の歴史、念仏の方が『大無量寿経』よりもさらに根本的である。初めに名号があった。すなわち『大無量寿経』に先立って如来の本願があった。本願に先立って名号があった。まず名号があって、そうして本願があって、そうして『大無量寿経』があった。『大無量寿経』は忽然として出たのではない。『大無量寿経』はその本願念仏の歴史の中に完成し来たったのである。歴史の中に『大無量寿経』が成長したのである。歴史的事実の中に成長したのが『大無量寿経』である。

それで言語として伝説としての『大無量寿経』はすでに久遠の仏道の歴史の初めからあったのでありまして、『大無量寿経』というものがだんだん完成してきたのでありましょう。そうしてある完成の時期において、すなわちある段階において文字というものに書き表されたのでありましょう。それが文字に書き表されているというとだいたいにおいては固定するもの。だいたい固定するけれども、しかしながら単に固定しておらない。それがまた文化というものにしたがって成長してきたに違いない。『大無量寿経』は成長せる経典である。経典の成長というようなことを私は思うのであります。経典は成長するものである。

物語は成長する。成長せる物語。文学は成長する、そういう具合に聞いております。文学は歴史の母胎の中にだんだん成長している。やはりこの経典というものもそういう具合に成長するのでなかろうか。『大無量寿経』の文字はもう今日すでに固定している。また固定しても差し支えない。けれども『大無量寿経』の内容は幾らでも無限無量無辺に内に深められる。深められるものはそれは自身自ら深まっていくのでありまして、われわれが深めていくのじゃない。われわれは『大無量寿経』が深まっていくところの一つの機縁、一つの動機、機というものでしかないでありましょう。

思いますに、本願と念仏、この問題はさらに明らかにしていかなければならないのであります。本願と念仏というような問題がここに出てくるでありましょう。とにかく本願念仏の歴史、つまり如来の本願展開の歴史、本願が自ら展開したところの歴史、その本願展開の歴史の中にわれわれが呱々の声をあげ、そこにわれわれは生き、そこにおいて呼吸し、そこにおいてわれわれは骨となってもとの土に還る、こういう歴史であります。それがずっと伝統してきているということは、これは私は非常に不可思議の感に堪えないのであります。

もっとその問題についてお話するとよいと思うのでありますが、少し疲労したようでありますから、きょうはこれだけで御免こうむっておこうと思うのであります。自分が疲労して話をするということは、みなさんを疲労せしめるのであります。私が疲労を忘れている時はみなさんも疲労を忘れている、私が疲労を感じた時はみなさんもご同様疲労を感ぜられるだろうと思いますから、途中で止めるようでありますけれども、きょうはこれだけで。

(親鸞の仏教史観 第4講終わり)