表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第4講-16 (9/5)

今の迷信は自然科学のロジックと同じ形式のロジックでありますから、お前は親を苦しめたことがあろう、お前はいつかご飯食べるのに小言を言ったことがあろう、容易にありそうなことを百箇条ぐらいあげると、たいがいの箇条はほとんど当たるに違いない。そんなことで遂に頭を下げるでしょう。お前は電車に乗った時に只(ただ)乗りしたことがあるだろう、いやあったに違いないぞ。そう言われて、なるほど考えてみると、只乗りするつもりはなかったけれども、あまり混雑してとうとう切符が買えないものだから、遂に切符を買わないまま人に押されて電車を降りた。その時は切符を買わないでしまった、そういうことはもちろん善いことではないが、大した悪いことだと思っていなかった。それはおそろしい罪だと責められると大抵ぎくりとする。これは天理に背いている、人道に背いている、かくのごとくして天理・人道がこのごろはびこってきた。

つまり言ってみると、私どもは学問の方法というものを、もっと真面目に考えていかねばならない。そういう学問の方法というものは本当のものか、またそういうものは駄目なものか。思うに、それは説明の方法であって証明の方法ではないと。人々は説明を証明だと考えている。そんな学問をすればいくらしたって人格は同じこと、もとの木阿弥。そういうことはわれわれの人格の向上というものに関係ない。人格に触れないものは説明であって証明でない。証明というものはその人格に響かなければならない。本当に人格に喰い入らなければならない、人格を目覚めさせなければならない。これをもってたいがい一端を推し量るべきものでありましょう。

それでこの親鸞の道というものは自証の道である。そういう説明式の天理・人道の教えと違う。親鸞の道は弥陀の本願の道、本願展開の久遠現行の歴史の中に交錯している。その歴史の中に生まれ、その歴史の中に生き、その歴史の中に死んだ。歴史の中に生きた、それが現生正定聚であります。歴史の中に死んだ、それが無上涅槃である。この阿弥陀の本願の歴史において生きた、生きたがゆえにすなわち彼は現代において生きて正定聚不退転である。またしたがって彼はこの歴史において静かな骨となって眠ることができる、それはすなわち必至滅度(ひっしめつど)である。それは観念ではない、事実である。こういうことでありましょう。

(親鸞の仏教史観 第4講より)