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親鸞の仏教史観 第4講-14 (9/3)

天上の純粋無形の理想界というものは、そのままに地上においてその純粋なる形相(ぎょうそう)に象徴されるから、地かえって形なく天かえって形ありて、天地畢竟一体になる。天は地にかたどってあり、地は天にかたどってある。そこに「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり」、そういう言葉が生み出されてきているのでありましょう。ただ沈思冥想して、この世界そのものが駄目なのではない。煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)によって火宅無常の世界があるのである。われわれは自己の煩悩を忘れて、いたずらに火宅無常の世界を口にしないのか。自己の煩悩を自覚せずに、いたずらにこの世界をそのまま肯定して浄土とし、そこに仏に成られると、こんなふうに考えたらこれは間違いでありましょう。

しかしながら、単純にこの世界は火宅無常にして絶対的に駄目だと独断して、それを唯一の事由として、遠い所に浄土というものがあってそこで仏に成れるのだろう、そんなふうに考えたならば、まったく現実と没交渉なところで仏に成ることであって、それは何のための仏でありましょう。そんなところで仏に成ったっていっこう仏の精神というものは死んでしまうであろう。そういうことをわれわれは本当に静かに念じて、浄土の問題を真剣に取り扱わねばならない。いい加減のことを言ってお茶を濁したって、それは彼等自身は浄土教のための殉教者だと思われるけれども、そういう人間が浄土教を叩き潰しているのでなかろうか。

こういうように、私は一種の暗示的なような言葉を申しておりますけれども、とにかくわれわれの祖先の歩みという、つまりこれは物質的である。歩みは物である。しかしながら、その物によって形而上心がかたどられる。物によって心が象徴される。物は心の象徴である。物は心の形相である。物は心の具体化である。物に対抗して心という特別の存在があるのではなくて、形のある物において形なき心が回向表現する。物によって心がかたどられ荘厳される。物にかたどられて心がある。したがって心の本性は物に象徴せられつつ、すなわち物を否定しそれを超えて心は常恒(じょうこう)に形がない、真心は常に無形である。物を超えて常に無形のゆえによく物にかたどられて、形ある物において形なき心が初めて真実に表現回向するのである。物によりしかも物を否定して、そうして物において永遠に一切の形相を超えたる心それ自身の面目が表現回向せられるのである。私の浄土観は浄土史観にほかならないのであります。

さきほどからいろいろと混雑したことを申しているけれども、畢竟ずるに、阿弥陀如来の本願によって釈尊がある。釈迦という一箇の大人物があったかないか、そういうことは問題の中心ではない。釈尊という仏陀があったということは、釈尊をして直ちに仏陀如来たらしめている歴史的背景の問題であります。釈迦という単なる人格、そういう問題ではない。釈迦という人格をあらしめた仏道の問題。釈迦をして真実の釈尊たらしめ、釈迦をして本当の仏陀たらしめ、釈迦をして真実の如来たらしむるところ、そこに本当の仏法の歴史があり、弥陀弘誓の歴史というものがある。仏道の歴史の中に釈尊は誕生したもうたのでありまして、誕生したということはすなわち成仏するゆえんである。すなわち釈尊は実在にして同時に釈迦は阿弥陀仏の応化身(おうけしん)である。弥陀本願の応化身としてのみ釈尊の出現の大使命があるのであります。

(親鸞の仏教史観 第4講より)