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親鸞の仏教史観 第4講-13 (9/2)

ただこの大地に足で立って、われわれはこの足をもって大地をふんでみる。どういう音がするか。自分で生きているかいないかということは、足をもって大地をふんで見れば解ります。大地に足跡がくっつくかくっつかないか。自分の現在ということは、ただ足をもって大地をふんでみるということによって証明されるのである。親鸞は十方無量の諸仏というものは、みな大地をふんでいるものだということが見えてきた。

親鸞の念仏、親鸞におきましては真実仏教歴史のことごとくすべてがみな大地に関係し、みな大地を歩いた記録でなければならない。こういうふうに真の歴史においてのみこの大地はわれらの祖先がそこに骨を埋め、われらの祖先がそれにおいて呱々の声をあげ、われらの祖先がそれにおいて血を流したのである。われらの祖先の骨も血もみな大地から出たものである。大地から見い出されたものである。そういうことを親鸞ははっきりと認める。あの大乗経典というのはすなわちそれを示すものであって、ただ天上の空想を書いてあるのでなしに、まことに無碍自在に天上のことを語っているのも、それこそ地上に深厚の関係をもっているからである。真実に大地において天の理想の血肉を観たからである。地というものに関係のない天というものは何の意味もないのである。こういうことで一たび地というものに眼を開けば、初めて本当の天、天はすなわち現在せる未来であり、地は現在せる過去である、したがって過去未来であるけれども、しかしながら、それはこの現在刹那というものの内容である。したがって現在の過去、現在の未来である。現在の現在刹那という機微に触れて、現在せる未来と現在せる過去というものを、われわれは初めて証明することを得しめられるであろう。

全体浄土に形相があるとかないとか、方向があるとかないとか、形のある浄土、形のない浄土、そんな浄土に二つあることのないことは申すまでもないのであります。浄土などということも、すなわち形のある浄土と形のない浄土というものが一つだということ、それは説明ではなくて、それは現在の自分の歩み、すなわち行というものが証明するのである。そのほか何もない。だから私はさきほど申しましたように、おそらく法蔵菩薩の歩みというものは地上の歩みであろう。この地上に深く深く、この地の中心、すなわち底つ岩根にしっかり足を踏み込んで、そうして一歩一歩歩き来たった記録が、すなわちこの法蔵菩薩の五劫兆載永劫(ちょうさいようごう)の本願修行の伝説の記録である。だからしておそらくは、われらの祖先として阿弥陀仏というものはほとんど眼に見えないような光であろう。それは、太陽の光は何人も眼に仰ぐ光であるけれども阿弥陀如来の光明は眼に見えない光であろう。そういう光に包まれつつわれらの祖先は一歩一歩体験の旅を続けてきた。そうしてインドのある所においてわれらの祖先は足を留めてそこに悉達多(シッダッタ)太子というものが生まれた、そういうことでなかろうか。だからして突然として西方十万億の彼方の浄土と聞けば、われら民族の生活と没交渉のように感ぜられるであろうが、祖先の伝統の中に生まれたる感銘満てる私には、何か知らない体験の記録として地上に深き歴史的根拠をもっている、地上に必然の根拠をもっている記録に違いないと決定いたします。その地上の根拠をわれらは自覚の眼を開く時に初めて大胆率直に天上というのである。

(親鸞の仏教史観 第4講より)