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親鸞の仏教史観 第4講-12 (9/1)

第十七願というものは十方諸仏が我が名を称せずんば正覚を取らぬ、天にまします無量十方諸仏、私は長い間そういうものを瞑想しておりました。天地東西南北四維(ゆい)上下、そこに充ち満つるところの十方恒沙(ごうじゃ)の神仏たち、というように瞑想して観念しましても、何だか知らないけれども、それはただ単なる妙な一種の神秘的な感情に触れるだけで、それは大千世界に震動する生きた叫びになってこないのでありました。

かつて村上専精という偉大なる仏教学者がおられましたが、この村上専精先生が一代の名著『仏教統一論』の、何冊目だか知らないけれど「十方恒沙の諸仏よ」と言って序文に書いてありました。けれども、私は何を放言しているのだと冷笑して読んでおりました。おそらく村上先生は天の星座を仰いで十方諸仏と言われたらしい。私も以前はそんなふうに思っていた。そんなものでないということは、親鸞の現生不退、平生業成、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の道というものをたどっていくと、単に天を仰いで十方恒沙の諸仏というがごとき神秘主義や観仏三昧でなかった。親鸞はあそこにおいて念仏三昧を見い出しているのである。こういう具合に知らせていただきました。この「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ」というのは、それは単なる天上の観念でなく、まさしく地上の大行としての諸仏である。単なる天上の自性唯心の諸仏ではなくて、十方、東西南北四錐上下、こう申しますけれども、東西南北四錐上下というのは全体みな地上の歴史を組織する仏である。現在に地上に立脚しているところの仏である。まことにはっきりと親鸞はこの大事実を認められたのであるということを、私は今こそ明らかに知りました。

だからして十方世界の無量の諸仏というと、人々は何か天の四方八方を仰いでどこか遙かなる所にいるようにいたずらに要望しているのであろうけれども、今こそ私は歴然としてもろもろの仏菩薩はこの地上を歩いている。われらが足をもって歩むこの地上に諸仏は現に生きて同じく足をもって歩いていることを、歴史が語っているのであります。すなわち日蓮上人の言葉をかりて言えば地涌(ぢゆう)菩薩、地から湧き出たところの菩薩であります。いわゆるインテリなどというものは、たいがい久遠の地涌の菩薩ではなくて、突然として天から降ってきたものであります。それは下駄を履いて歩いているけれども足が宙に浮いているのがインテリであります。それはやがて個々に滅亡すべき階級である。本当に永遠に生きる者は地から涌いた地涌菩薩でなければならない。その地涌菩薩でおられるもの、それがやがて仏と成る。

これらのことはまだ明瞭にしなければならないのであるが、ひるがえって、あの阿弥陀の四十八願というものも、おそらくは親鸞以前の多くの人々は、あれはみんな過去の何か旧暦のような、何か神秘的な世界を語るものとして、考えられていた。それが親鸞においては、まさしく今日の地上の歴史を語っている。およそ大地にあるものはみな現在である。過去も現在であり、未来も現在であり、かくて現在が真実に現在である。大地というものに基礎を置かないものは現在も過去であり、また未来であって現在ではない。いわんや過去いよいよ過去の過去であり、未来もいよいよ未来である。大地のないところに現在はない。大地に足を立てているところに久遠永劫の現在が刹那にある。

(親鸞の仏教史観 第4講より)