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親鸞の仏教史観 第4講-11 (8/31)

永遠に死ぬということが永遠に生きるゆえんの機縁だからして、骨のある所が本廟であるのは、永遠に彼がそこにおいて寂滅していることを象徴し、また、ご真影奉安の殿堂が本廟であるのは、彼が永遠にそこにおいて興法利生の仏事に生きておられることを象徴する。死ぬも生きるも、死を得しめ生を得しめる畢竟依処があるからである。死ぬと生きるとは外観からすれば正反対であるけれども、それにおいて自由無碍に生を得しめ死を得しめる、その場所は一つである。その根拠は一つである。その根拠は何であるか。すなわち如来の本願念仏である、その如来の本願の歴史である、如来の本願の展開の歴史である。そこにおいて親鸞は前念命終(ぜんねんみょうじゅう)された、同時に親鸞は後念即生(ごねんそくしょう)せられた。金剛の真信はまことに前念命終の心境であり、即得往生はまさしく後念即生の境界である。こういう具合にあの二つの本廟が手を握ってそうして即便微笑して語っているのでなかろうか、こういう具合に私は申したいのであります。

今申したのはもろもろの仏、あのもろもろの仏というのはたいがいみな過去の墓場であります。薬師如来だの大日如来だの、どこのお薬師さま、どこの大日さま、それはそういうことを言ってはなりませんけれども、まあ多くの仏というのはたいがいみな過去の何か先住民族の墓の墓印である、墓銘である、墓に彫ってあるところの墓印である。

こういう具合に考えてきますと、いろいろの諸仏が昔のわれらの祖先の何か知らないけれども、すでに滅亡した種族の魂の墓が大蔵経の中にたくさんのこっている。記録されてのこっている。けれどもそれがすでに滅びた異民族の伝説である。それが阿弥陀の久遠本願の歴史というものに帰入統一せられることにより、新たに永遠不滅の生命を得る。こういうことになるのでなかろうか。すなわち第十七願の諸仏称名の願のある一面はまさしくこれを語るものでります。第十七願こそは古来中外の一切の宗教哲学の帰一を証誠宣言するものである。すなわち第十七願の諸仏称名の願を『大無量寿経』に宣言して、

たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。
(『聖典』十八頁)


と。これについては前から考えていることがあります。こういう堂々たる本願...堂々たる本願といって、こういうふうな言葉に書き表されるようになったのは、それはおそらくはよほど後世のことだと思います。いったい文字ができたのはどこの国でもよほど後代のことだろうからして、あんなぎこちない文字で書かれてあると、現代のわれわれが見るとずいぶん古典的だ。けれどもこれを書いた人間の時代には極めて新しい言葉であったに違いないと思う。親鸞の時代にはこういう言葉はすでに古典的になっていた。古典的で死んだ文字である。死んだ文字であるが、親鸞はそれにおいて新しい生命、精神をそこに汲み取った。親鸞においてはそれが生きた事実であった。

(親鸞の仏教史観 第4講より)