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親鸞の仏教史観 第4講-9 (8/29)

こういうようなことをはっきり今申すことはできないのでありますが、とにかく、私は思いますに、親鸞によれば『大無量寿経』の法蔵菩薩の伝説、これが釈尊を生み出したところの純粋の背景でなかったであろうか。まことにしかり、かく自問自答する。自らあろうかあろうかと問えば、すなわちあるあると応じる。そういう具合に、さらにさらに限りなく問う、限りなく問うところに、限りなくしかりしかり、如是如是と答えているのであります。自問自答はまさしく感応道交である。おそらくこの釈尊の伝説の背景、正当純粋の伝統というものは阿弥陀如来より受けている。阿弥陀如来という仏はつまり釈尊を包摂せる祖先、釈尊は阿弥陀如来の光の中に摂(おさ)められたる子孫なのであります。

もう一つ申しますれば、いったい阿弥陀如来というのは全歴史を包めるわれわれ民族の祖先、われわれは阿弥陀仏光明海中の子孫なのであります。しからば阿弥陀如来はやはり子孫をもっておりますかといえば、私はしかりと答えるのである。あの釈尊のもろもろの伝統は生滅無常の風に吹かれて、あるがごとくなきがごとく、若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)の形をもって...それがまた若存若亡であるということが面白いのでありまして、ある時には弥勒(みろく)が現れ、ある時には阿*(あしゅく)とか大日(だいにち)とか、いろいろの仏が現れている。薬師の十二の大願(だいがん)、そういうものはどこから飛び出したか、妙なところから飛び出してきたのでありましょう。そういうものは幻のごとくに消えてしまった。つまり仏教の歴史の流れの中心から消えてしまって、ただあるものは古紙のような経典に文字が残った。文字が残ったけれどもその生命はなくなってしまった。薬師さまは何か知らないけれどもわれわれの祖先、何か知らないけれどもわれわれの祖先の、何か一つの故郷(ふるさと)に違いない。

(本文中の*はUNICODE U+95A6の「しゅく」という字です)

(親鸞の仏教史観 第4講より)