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親鸞の仏教史観 第4講-8 (8/28)

話がすぐ枝葉の方へ行くようですけれども、枝葉に行くということはすなわち自分においては自分の本源に帰るべきゆえんでありまして、いま申しますのは、釈尊が真の偉大ということは釈尊の背景が偉大である。釈尊から背景を取ってしまえば、釈尊というのは単なる卓越せる一道学者に過ぎない。その証も自性唯心の深大なるものにほかならない。仏教というものは一種の道徳教にほかならない。たいがい中国の老子の『道徳経』などというものと大差ないものであろうと思います。苦・集(じゅう)・滅・道の四諦(したい)という、単にそういう法門だけを考えて釈尊の思想というものを組み立ててみたところで、極めて抽象的なものでありまして、単なる一つの観念主義にほかならない。そういうものはいわゆる独我論的自性唯心というものでありましょう。それは単なる阿羅漢であって、諸仏如来に成ることではないと思います。

例えば苦聖諦(くしょうたい)について、人生は苦なりということは、それは単なる自分個人の問題であってはならない。そこに苦なりと自証感応せしめられるところの内在的根源がなければならない。しからば根源の事実というものは何であるか、すなわち歴史的内面的背景である。歴史背景がそれを証誠している。苦なりということはこういうことであります。真実に人生は苦なりと感応道交したら、もうそこには何か知らぬけれども、苦・集・滅・道の四諦と言っているけれども、本当はこの苦諦一つでたくさんなんであって、一諦でよいのである。一諦一諦みな全体である。苦・集・滅・道と四つ寄せて初めて釈尊の自覚ができる、そんなものではないのであって、苦なりというところにもう全体がある。集なり、道なり、滅なり、こういうこと一々にみな全体がある。

それはそれとしておいて、四諦・十二因縁・六波羅密等もろもろの法門はみな歴史的事実として、歴史的事実そのものが釈尊をして語らしめている。釈尊が独我論的に語っておられるのでない。釈尊は語らざるを得ずして語っておられる。釈尊をして語らしめるところにおいてそれが証というものになる。釈尊がそういう道理を考えて語ったのでは説明になる。一切の説明は畢竟独我論を出でない。語らざるを得なかった、語らしめられたるところに自証がある。この語らしめられるところに、そこに本当に語らしめる真理の力そのものがある。かくて過去は厳然として永遠に現在し、したがってそれに裏づけられる現在は永遠に滅せないであろう。

(親鸞の仏教史観 第4講より)