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親鸞の仏教史観 第4講-7 (8/27)

その五十三の仏というものは外観はまことに微(かす)かなる光であり、単なる唯物的論証から見れば、それは物の数にもはいらないものであったでありましょう。しかし、現在釈尊自身の自内証の光をもって照らしてみると、照らされる方は広大無辺であり、照らすものは蛍の光である。第三者から見れば五十三仏の光は蛍の光であり、釈尊の光は太陽の光である、と讃嘆したのでありましょうけれども、釈尊自身から言えば自身の光は蛍の光であり、照らされたところの五十三仏は太陽の光のごとく耀いている。それに照らされて自分というものはそこにある。こういう具合に釈尊は念ぜられ、その念ぜられたままを語られたのであろうと思うのであります。

これは釈尊に限ることではなく何人もそうであるのでありまして、親鸞は(これはまあ後に話をせんならんのだけれども)よき人法然上人の教えを蒙って信ずる外に別の子細なし、自分なんかほとんど問題でないほど小さなもの、法然上人こそ絶大のお光である。法然上人が太陽であれば、これに比(くら)ぶれば自分は蛍の光に過ぎない。親鸞の自証の表面においてそういうように耀いた。そう耀く時に、そう自覚するときに、太陽の法然上人の光、それがそのままに全体自分の光となるのであります。法然上人を讃嘆している。

歴史的事実としては、歴史の世界においては、それがそのまま親鸞の光としてあるのである。これは民族の歴史の世界であります。単なる独我論なる自性唯心の世界においては、自分が偉大ならんがためには他の偉大なる師友たる人を讃めると損になる。他人を讃めると自分の存在がなくなってくる。ところが人生の歴史の世界においては、本当に自分の師たるところの法然上人の偉大さに打たれれば打たれるほど、親鸞の偉大さが耀き出されてくる。こういう一つの境地というものに眼を開くのが救いの世界、それがすなわち宗教的自覚の世界というものである。こういうような境地を少しばかりでもお話しさせてもらいたいというのがこの講壇上に立ちましたところの自分の願いであります。

それは自分の願いにほかならないのでありますけれども、その願いというも事実に裏づけられた願いがあるのだからして、その願いがあるという願いそのものは事実を証明して...願いはすなわち事実に証明せられてある。それがまた事実を証明するのである。これは仏教学の上において種子生現行現行薫種子三法展転因果同時、そういう具合に述べてあるのであります。

(親鸞の仏教史観 第4講より)