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親鸞の仏教史観 第4講-6 (8/26)

釈尊までの間に五十三の光、釈尊の伝統というものは五十三、伝統の歴史というものに五十三の光がある。こう書いてある。過去七仏というようなところがだいたい釈迦種族の純粋本来の伝統であったものと見えますから、それがいろいろの種族の伝統と結婚することにより、このように広遠長久の伝統を映し出して、五十三仏の光明が現れてきたものと見える。もとより五十三仏というものはやはり七仏と同じものである。しかしながら、現れた光景はまったく別種であって、錠光如来、燃燈如来というものが『大無量寿経』の五十三仏においては一番新しい。まず過去の、いまは昔の長い自分の伝統の世界というものを静かに反省内観すると、まずその長い年代において、そこにまず直接に最初に見い出されたものは錠光如来である。そうすると錠光如来といえば一番新しい近い仏に違いない。

こう申しますのは、これは私は『大経』のいろいろの現在伝わっているところのもろもろの訳というものを全体見て、そういう具合に解釈する。そういう具合に解釈するのは当然のことである。その次その次とだんだん上にさかのぼってくる。これは当然である。その次その次というのはすなわちその前のこと。まことにあれは内観の世界、すなわち久遠伝統の歴史の世界を事実のままに照らすというと、最初は一番近く新しい、第二は次で新しい、第三はまた次に新しい、こういう具合にまったく順序を顛倒して読める世界、内的伝統の境界が展開せられるであろう。すなわち「次」というは次第に新より古にかえるのでありまして、そうして一番最古の仏、すなわち世自在王如来という一番古い仏の光に照らされて、そこにおいて法蔵菩薩というものを見い出した。こういう具合に記されている。

私はそういう具合に『大無量寿経』を聴聞する。こういう具合に開顕する一つの論証の世界というものがある。阿弥陀という久遠の仏の相、そういうものがそういうところにしのばれる。

(親鸞の仏教史観 第4講より)