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親鸞の仏教史観 第4講-4 (8/24)

もっとも一週間もこの講演会が続くのであれば、あるいは材料に窮してそんな話も出るかも知れないが、材料に窮しないものであるから、そんな話をする必要がない。材料なんかいらないのであって、こうして話していればよいのである。みなさんの顔が材料、みなさんの顔さえ見ていれば話ができる。たった一人では話ができない。一人で話ができる人もいるかも知れないが、われわれ常識者には人の顔を見ていないと話ができない。みなさんの顔さえ見ておれば、みなさんが話を聞きたい、そういう念願があれば話ができる。これは間違いないのであります。みなさんと私は一つであって初めて話ができるのである。だからみなさんは私の顔を見ておられればもうちゃんと解る。眼をつむって話を聞いても決して解らない。まず私の話を聞こうと思えば、私の顔を見ておられるがよい。私の顔のどこを見るかというと、私の顔の眉間をご覧なさい。ここに白毫相(びゃくごうそう)が見えますか。

白毫相に関しては私は一つの見解をもっているのであって、これはちょっと思い出したから一つお話してみましょう。こういうようなことは面白いことであります。また妙なことを言うようだけれども、一遍聞くと、なるほどということが解る。眉間の毫相、あんなものがお釈迦さまにあったか。思いますに、この二つにの眼は智慧の相である、そしてこの二つの眼を底辺、底角としてそこに三角形がある。等辺三角形か二等辺三角形か、あるいは顔によって二等辺になりあるいは等辺三角形になる。馬のような顔の人は等辺三角形、まるい顔の人は二等辺三角形。その三角形の頂点が眉間。みなさん人間の感情がふと動いてくる、感情はどこにあるか、ここ(眉間)にある。みなさんの感情というものはちゃんと眉間を見ていると解る。たいがいの人間は年が行くと横の皺ができる、これは仕方ない。けれども横の皺の外に竪の皺というものがある。敏捷なものでありまして、ビューッと感ずるというと竪の皺が出る。竪の皺が出た時に眉間の白毫が曇る。

(親鸞の仏教史観 第4講より)