表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第4講-3 (8/23)

どうも私は十方浄土観があって、それが今度西方浄土に限定されてきた、そんなわけのものでないと思う。これはもろもろの伝統伝説というものが、どれが先だとか後だとか、そんなような前後なんか問題でないのである。ただどれが本当の純正なる人間の宗教的の要求、純正なる宗教的要求の具体化したものは何であるか。それが問題でありまして、後だの先だのというようなことは問題以外のことであります。私が思いますに、それはみんな初めから十方に浄土がある、そんなことを考えたのでないのでありまして、それぞれの浄土というものがある。そうしてその浄土というものは単なる理想でない。それはわれら祖先の歩み来たったところの足跡である。

私は、西方浄土といえば直ちにこの地球以外にまったく没交渉に遠い浄土がある、こんなふうに考えるものに、あえてそれを直ちに正面から反対するのではない。しかしながら、私はつらつら考えてみますというと、いろいろ浄土浄土と言っているけれども、浄土というものは、だいたい地球の上に深い因縁を有するものだ、これが私の出発点。浄土往生といえば何か空気のないところまで飛んで行かないと往生がないものだと思っている。ある人が言うには、浄土という国土は単なる国土でなくて、浄土というものはそこに生まれれば仏道を成就する国がある、そこが浄土である。こんなように言う。それはそうに違いない。違いないけれどもしかしながら、そういう浄土において仏道を成就するという証明はどこにある。この世界では仏道を成就することはできないということは、あるいは事実でありましょう。しかしながら、この世界絶対的に仏道を成就しないからといって、直ちに西方...十万億土という遠い所へ行って、そこで仏道を成就し得るという証明にはならない。西方過十万億仏土の極楽浄土の信楽(しんぎょう)についてはさらに別に証明を必要とせねばならない。この証明を欠くとき、浄土の信念は独我論的辺地懈慢界(けまんがい)にすぎないであろう。

われわれは、仏道というものも、浄土というものも、この現前の世界の人類のために要求されているのであって、突然何の証明もなくして遠い所世界があって、そこに仏道を成就する、そんな話を聞いたからといって何の感銘もない。そういう感銘はただ偶然的直接的一時的の神秘主義であります。神秘主義の信仰は観仏三昧の信仰である。それは念仏三昧の道ではなくして観仏三昧の道でなかろうかと思うのであります。観仏三昧・念仏三昧という事柄もいろいろ考えがありますけれども、きょう、そういうことを話している暇はなかろうと思いますから、そういうことはとにかくお話をしないことにいたします。

(親鸞の仏教史観 第4講より)