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親鸞の仏教史観 第4講-2 (8/22)

いわゆる、伝説の華が千万種あって、七つの宝をもって造り上げられたところのそのいろいろの華が池や流泉の水を覆っている。そうして白い色には白い光あり、赤い色には赤い光あり、黄なる色には黄なる光あり、青い色には青い光ありというように池流泉を覆っている。蓮華の華と葉とを微風がそよそよと吹いて動かす。そうするとその葉にも光あり、華にも光あり、無量雑多の光が青黄赤白相互に映し交錯する。『浄土論』の偈文は簡単に「交錯して光乱れ転ず」と書いてあるだけであるが、おそらくは、ただいま私が申し述べたような意義を有するものでなかろうか。もちろん私はあえて主張するのではないが、『浄土論』二十九種の荘厳などというものはだいたいそういうようなことを書いたものでないのか。何かあれは単純に美妙なる世界、麗しきかな浄土、などというようなそんな単純な空想的な浄土でないのでありまして、もっと現実的なものを書いた。ただ沈思黙考するという、黙考ばかりしたってそんな浄土は化土であります。

真実報土はそんな化土ともっと違う。そういうように諸大乗経の上にもろもろの伝統があって、それが互いに交叉しまたこれが入り交って、またそれがいろいろに分かれ、そうして無量雑多の伝統というものが互いに交錯している。かくのごとくして私は『大無量寿経』、すなわち阿弥陀如来の本願修行、阿弥陀如来の因位果上の伝説伝統というものは、これはこのもろもろの伝説伝統の源泉主流である。

多くの人はまず十方浄土があって、そうして西方浄土というものを決められたものだ。まず無統一なる無量雑多の浄土観というものがあって、それから十方法界遍満の絶対浄土観というものが出てきて、それから今度西方浄土というものができてきたのだ。こんなふうに考える。こういう考え方は分段生死的の考え方であります。分々段々の断片的観念の積聚(しゃくじゅ)結合の考え方であります。客観的証明ではない、主観的説明である。もっともらしいけれども力がない。そういう話を聞いてもなんら感銘がない。はあそうかな、うまく話をしましたな、なかなかうまくごまかすな、ちょっと眉毛に唾をつける。このごろの浄土観についてのいろいろの人々の書いたものを見ると、しばらく眉毛に唾をつけよう、そういうものでないかと思う。

(親鸞の仏教史観 第4講より)