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親鸞の仏教史観 第4講-1 (8/21)

どうも昨日は序論で、本日はこれから本論を話そうというような心持ちでありましたけれども、いよいよ壇に立ってみればやはりきょうも序論、親鸞の仏教史観序説、すなわち序論というもので、結局序論すなわち本論、こういうことでありまして、本論でも序論でも結局つまり同一事であります。こういうようなことをだらだらと毎日話しても序論、まことに山鳥の尾のようにだらしないようではありますが・・・・・。

この頃は何かというと学界の常識と言います。君は現今の学界の常識を知らんか、と言われます。私には学界の常識よりは人間の常識がまず大事であります。学界にはとかく非常識者が多いから、学界にはまず人間としての常識が大切な問題で、学者として常識があるかないかよりは、人間として常識があるかないか、これが根本であります。

まず常識という言葉の弁解をしておきます。私の常識というのは、人間としての常識であって、学界の常識でない。学界においては非常識者、人間においては常識者。まあこれは一つの説明ではありません、証明でありますから一つのことをあまり諄々(じゅんじゅん)として何だか述べてきたようですが、私は説明じゃない証明です。証明の道を歩いております。だから、つまりみなさんに肯かせるのでなしに、私自身が自身を肯かせるのでありまして、みなさんがおらんで自分だけ肯いたら自性唯心(じしょうゆいしん)であります。みなさんが肯くということは私が肯くゆえん、私とみなさんと同一体。みなさんを肯かしめよう、そういう熱情が自分を肯かせるのであって、つまりみなさんをとおしてみなさんを縁として、私自身を自分に証明する、自証、そういう自証の道を説いているのであります。

いま、阿弥陀の本願が、いまも休憩のさい安藤州一さんのお話には久遠実成(くおんじつじょう)というお話がありました。

  久遠実成阿弥陀仏
   五濁の凡愚をあわれみて
  釈迦牟尼仏としめしてぞ
   迦耶城には応現する

というご和讃があります。そうして、私が述べたことに対してとにかく第十七願、諸仏称名の一つの役を勤めてくだされて、私は非常にありがたく感謝しております。重ねて来場の安藤さんに感謝いたします。

釈迦以前の七仏、この過去七仏ということはすでに『阿含経』の中に示されている。過去七仏というものが書いてある。そういうことなんかも、私はやはり、このまま受け取るのであります。何か知らないけれども過去の七仏の伝統というものが釈尊にある。おそらくはこれは釈迦種族と言いますか、釈迦種族の伝統であろうと思います。それと対比すれば、『華厳経』なんかにあるいろいろの伝説というものは、あえて釈迦種族だけの伝説でなしに、釈迦種族以外のもろもろの伝説で、異種族伝説が互いに触れ合ってきた、そういうようなことでなかろうか。『浄土論』の偈文(げもん)を見ると、

  宝華千万種にして、池・流・泉に弥覆せり。
  微風、華葉を動かすに、交錯して光乱転す。

という言葉があります。そんなものを持ってきて何を証明する、そうみなさんは言われるけれども、「宝華千万種あり」、すなわちこの宝の華、華というのはすなわちもろもろの伝統である。その千万種のもろもろの伝統伝説、それはむろんインドにあるところのもろもろの種族、もろもろの種族がだんだん交際し接触して互いに結婚してきた。人間が結婚するというと伝説も結婚する。人間と伝説とが一つに結婚する。そういうことが考えられる。だからいずれの民族の伝説も、自他内外の諸民族が互いに結婚することによって、伝説と伝統とが交叉し、その伝説がまた限りなく結婚して、そうして新たな世界的な久遠の伝統を照らし出した。そういうようなことも考えられる。

(親鸞の仏教史観 第4講より)