表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第3講-10 (8/20)

あの『大無量寿経』の法蔵菩薩の本願において親鸞は仏教の原理を見い出した。仏教の原理、すなわち具体的の原理、事実の原理を見い出した。『大無量寿経』の歴史というのは、すなわち弥陀の本願展開の歴史である。こういう具合に親鸞は見い出したのでありまして、『大無量寿経』が真実の教えであるということは、その本願がこれを証明している。『大無量寿経』に現れているところのその本願が『大無量寿経』の真実の教えであるということを事実として証明しているのである。こういう具合に親鸞は信じておられるのであります。

もちろん、そういうことを言っても親鸞の証誠に徹底的に反対する人々もあるでありましょう。それに承認を与えないお方もあるのでありましょう。承認を与えないお方があるから証明の必要があるのであって、初めからみんなが承認したら...みんなが初めからそれを承認するくらいなら初めから本願はないのであります。本願があるということを承認せしめるために本願があるのであって、承認せしめるということは承認しないものを前提として、承認せざるものをしてやがて承認せしめんために、本願というものが開顕されたのである。こういう具合に言わなくてはならないのであります。

だからしてこの阿弥陀仏の本願というものに対して反対するものは、仏教の歴史の上において見るならば、ほとんど仏教の歴史というものは、昨日も申しましたように、この本願疑謗の歴史であった。まことに内面には本願信順の歴史であるとともに、また外面から見れば本願疑謗の歴史であった。本願疑謗が外に盛んになるほど、本願信順というものが一層内部に深められる。本願の信順が深められれば深められるほど、疑謗の声もいよいよ盛んである。こういうことになるのでありまして、疑謗があるからといって、これを疑うべからざるものであります。

こういう一つの論証の道というものは、親鸞もまたこれを認め、それに反対されるところのその旗頭の日蓮上人もまたこれを認めておられます。『法華経』をみんな信ずるならば日蓮上人はいらぬ。みんな信ずるならば日蓮上人はいらんのでない、いないでありましょう。だから疑謗が盛んであれば盛んであるほど、日蓮上人は強く叫ばれるのである。かくのごとき事柄は畢竟ずるに事実問題であって理論の問題でない、実際問題である。そういうことになると思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第三講終わり)