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親鸞の仏教史観 第3講-9 (8/19)

しかしながら『大無量寿経』の四十八願は数の問題でない。数なんかどうでもよい。四十八が四十五であろうと四十であろうと三十七であろうとそれが十一であろうと、何も二十四願が必ずしも必要ないのであって、親鸞はたった八願しか採用していないから、親鸞によれば法蔵菩薩がたった八願を作ってもよい、八願で結構だ。『教行信証』によれば親鸞はわずかに八願を引用している。八願によって真仮(しんけ)、真実・方便、あらゆる問題を八願というものを原理として親鸞はそれを証明しております。したがって八願以外のものはあってもなくてもよいのである。あって差し支えなく、なくても別に足らぬことはないのであります。あとどうでもよい。

けれどもあの八願だけは親鸞から見れば必然的のものであります。親鸞においてはその一つをも欠くべからざるもの、こういう具合に親鸞は確信しておられるのであります。だから何も四十八といって人をこけおどししたのでない。数をもって人をこけおどしして、釈迦に五百の大願あり、法蔵に四十八しかないではないか、五百発∧おこ∨そうが一万発そうがそんな数なんかどうでもよい。その内容の問題。四十八願なお多い、八願でよい。もう一つ八願もいらんので、第十八願たった一つでよい、そうも言われる。一つでもよいのであるが、しかしまあまず全きを欲すれば八願である。こういうのが親鸞の領受されたところの境地であったであろうと思われます。

(親鸞の仏教史観 第3講より)