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親鸞の仏教史観 第3講-8 (8/18)

この『教行信証』の教巻(きょうのまき)の言葉を聴聞しますと、

 弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、
 凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施する
 ことをいたす。釈迦、世に出興して、道教
 を光闡して、群萌を拯い、恵むに真実の利
 をもってせんと欲してなり。      
          (『聖典』一五二頁)

こういう具合に『大無量寿経』の大意というものを述べておられます。極めて明瞭である。この文字はまったく経典の文字である。一つでも親鸞の私見を加えぬ。経典の中に経典の大意を見い出した。経典中に経典の叫び声を聞いた。経典中に経典自らその大意大綱綱格を叫んでいる。その叫び声を聞いて、その聞くところの声を写し取って、「弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす」。したがって、これによるがゆえに、「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」。ちゃんとつかまえるところをつかまえた。いかなる人といえども、真実に道を求め、真実に道を歩むところの人は、いやしくもその言葉を聞いたならば頭がさがらなければならない。これは絶対の権威をもって道が道自身を語っている。道自身が名のりを挙げている。絶対の命令である。無上命法である。

この『大無量寿経』の本願、本願といっても初め、昔の古いお経に二十四あった、それがだんだん増えて四十八願というものになった、そんなことを言う人がある。あるいはそうかもしらん、それはそれでまた事実だある。二十四願は古い型のお経であるし四十八願は新しい型のお経である。それを否定するのではない。それは、ああいう一つの編纂された経典の型としてはそういう順序であるであろう。それを否定するのではない。それはそのまま肯定して差し支えない。私はそういう一つの唯物的歴史観、唯物仏教史観、そういう一つの史観というものを認める。認めるがゆえにそういう一つの仏教史というものを私は変えてくれ言うのでない。それはそれに違いない、それはそうであろう、けだししからん。けだししからんと、それは承認するのである。

(親鸞の仏教史観 第3講より)