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親鸞の仏教史観 第3講-7 (8/17)

私は常識主義者であります。極めて穏健な常識主義者、あまり穏健なことを言うと奇抜に聞こえるのであります。みなさんには奇抜なように聞こえるけれども私は穏健なことを言う。今穏健に思われている人の方がかえって奇抜なことを言っているのであって、さきほど申しましたように、驚くべき奇抜なことを言っている。私は穏健なことを言うと、奇抜な説だ、こういうふうにみなさんお聴きになるでしょう。静かにいかなるところが穏健、いかなるところが奇抜か、考えるとわかる。

まあ世の中の事柄というものはしっかり考えなければいけません。ただ文字を並べたり、また活版刷の文字をもってごまかされるというと大変間違わされます。実際自分の常識というものに尋ねて、自分の実際自覚というものに尋ねて、そうして一つ一つのことについて、何か学問を振りかざして異安心問題だの、いろいろ偉そうなことを言っているけれども、結局感情の衝突である、結局利害問題であるということは、今も昔も同じこと。

だからしてたいがいの人が何のかんの言っているけれども、そういう者を相手にしないのが本当。そんな者を真面目に相手にしようものならとんでもない目に遇う。人が何か言った、そういう時はよそみをして黙って相手にならんというと、向こうが疲れて沈黙するでありましょう。黙っておればいつも沈黙する。ところが、相手になるというと向こうのペテン、策略にかかったことになる。

だからして、この部派時代において仏教界にまったく統一がなかったと考えるのは、それはよほど皮相な見であって、部派時代、小乗二十部が分裂したとかせぬとかにかかわらず仏教は大乗一味であった。大乗一味は釈尊の時代からずっと一貫している事実でありまして、決して龍樹(りゅうじゅ)・馬鳴(めみょう)によって初めて大乗仏教が興り、仏教が統一されたのでない。龍樹とか、馬鳴とか、そういう人々によって初めて仏教が統一せられたのでなくて、彼らはただ仏教統一の原理、小乗諸部の分裂闘争というものを縁として、そこに新しく仏教統一の一つの道を、はっきりしたのであります。それに過ぎないのである。仏教が純一の流れをもって流れているということは、それは摩訶提婆が五事のの妄言を吐こうが吐くまいが、そういうことにまったく関係ないことである。まったく無関係に純一な仏道の歴史というものは静かに象王のような足取りをもって、内に内に展開し流れてきておったということは、これは争うべからざる、疑うべからざることである。

その証拠はどこにある。『大無量寿経』がこれを証明していると親鸞は答えた。親鸞は『大無量寿経』をもって真実の教え、如来興世の真説、一乗究竟の極説である、こう申しました。なぜ『大無量寿経』が真実の教えであるかといえば、浄土真宗を開顕しているからである。浄土真宗の道を開顕した、浄土真宗という一つの道の歴史、道の自体の展開の歴史、その道の歴史の中にあって道の歴史を明らかにしている。ゆえにすでに『大無量寿経』というお経がまず成立してそれから『大無量寿経』の歴史が始まったのでなくて、『大無量寿経』というものはすでに道の歴史の中にあの経ができたのである。すでに道の歴史というものを前提として『大無量寿経』というものがある。こういう具合に親鸞は観ておいでになるのであります。

(親鸞の仏教史観 第3講より)